宗名事件
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しゅめい-じけん
江戸時代に宗名をめぐって浄土真宗と浄土宗の間にあった論争のこと。宗名論争ともいう。安政三年(1774)、東西両本願寺が幕府に対し、一向宗などの俗称を廃して「浄土真宗」の宗名を全国で用いるよう求めたことを端緒とする。
浄土宗増上寺がこれに反対して浄土真宗の名は本来浄土宗の名であると主張したことから、10年余り論争が続いた。幕府は結論を出さないことで決着させた。なお明治5年(1872)に新政府が「真宗」の公称を認めた。その後、本願寺派では昭和21年(1946)に定めた宗制・宗法において、宗名を「浄土真宗」公称している。(浄土真宗辞典)
なお、明治政府から宗名を提出することを要請されたとき、十派はそろって真宗と決めたのであるが、西本願寺だけ浄土真宗と書いて提出したといわれている。
ともあれ、御開山は『和讃』で
- 念仏成仏これ真宗
- 万行諸善これ仮門
- 権実真仮をわかずして
- 自然の浄土をえぞしらぬ (浄土 P.569)
- 智慧光のちからより
- 本師源空あらはれて
- 浄土真宗をひらきつつ
- 選択本願のべたまふ (高僧 P.596)
とされておられるので、真宗という呼称は浄土真宗の略称である。なお、御開山には世俗の宗派意識が無かったので、「高僧和讃」にあるように、浄土真宗を開かれたのは法然聖人であるとされていた。
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