信罪福心
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しん-ざいふく-しん。
罪とは苦果を招く悪業、福とは楽果を招く善業のことで、楽因楽果、苦因苦果の道理を信じることをいう。この自らの行為(業業)のみを信じて仏果を求めようとする心をを信罪福心(罪福を信じる心)といふ。
信罪福の語は『大経』胎化段に、本願(第十八願)の善悪平等に衆生を済度したまふ「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智」とある阿弥陀仏の五種の智慧を信じることがでずい自因自果の因果の道理に迷う者をいふ。
- 於此諸智疑惑不信。然猶信罪福 修習善本 願生其国。
- この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。
御開山によれば、「善本を修習」とは法然聖人が示して下さった「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」(歎異抄 P.832) の、口に〔なんまんだぶ〕と称えることである。本願(第十八願)に選択された乃至十念であった。
御開山が開顕された浄土真宗では「信心正因」として、信を強調するのだが、その信とは「自業自得の救済論」から、大乗仏教の究極としての「大悲の必然としての救済論」への仏教への大転換であった。 →(真仮論の救済論的意義)
ある意味では、因果を説く仏教思想の破壊でもあるのだが、大乗仏教の究極の姿として「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」消息 P.737)であった。
以下、梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』より信罪福心について窺ってみる。
(『顕浄土方便化身土文類講讃』 梯實圓著)P.408、P.409より引用
信罪福心
「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり」(*)といわれた「信罪福心」は、『大経』の胎化段に仏智を疑いながら、罪福を信じて善本を修習するという胎生の因を説かれたところで用いられた言葉である。(*)
もともと罪福を信じるとは、仏教で一般的に語られる善因楽果、悪因苦果という善悪業報の因果、自業自得の因果を信ずることであり、それを実践しているのが廃悪修善の行であった。
しかし親鸞聖人はここで「罪福を信ずる心」を自力心の変え名として用いられている。
それは善悪平等の救いを誓われている仏不智思議[1]の本願を受け容れないで、廃悪修善の論理で本願を理解しようとしていることを「信罪福心」といわれたと解釈されたからである。
つまり親鸞聖人は「罪福を信ずる心」を「自力のはからい」の替え名として用いられたのであった。
『観経』の九品段でいえば、上六品は善人(福)の往生する因果であり、下三品は悪人(罪)の往生する相であるが、往生の因はそれぞれが造る善業である。それが上々品から下々品までの優劣の隔たりがあり、経の顕の義[2]でいえば、善業の優劣に応じて浄土の果相は大きく異なっている。この『観経』の顕の義の通りに信じることを「罪福を信じる」といわれたのである。
それに対して第十八願は、阿弥陀仏が不思議の仏智をもって善悪平等の救いを誓われた誓願であって、本願を信じ念仏する者は老少善悪をえらばず往生を得しめられる。
浄土往生が成立するかしないかは、善人か悪人か、善業の優劣によって決まるのではなくて、善悪を超えて平等に救うと誓われた本願を信じるか疑うかによって決まるというのである。
本願力による善悪平等の救いを告げる第十八願成就の名号を、善悪業報の因果を信じる心で受け容れ、名号を称念した善根功徳によって往生を遂げたいと願っているのが第二十願の真門念仏だったのである。 第十八願の法を第十九願の心で受け取っているのである。
そこには与えられている南無阿弥陀仏という教え(法)と、救いを求める行者の心(機)との間に明らかな乖離があることがわかる。
その心を「これを自力の専心と名づくるなり」(*)といわれたのである。自力の専心は、定専心であれ、散専心であれ、「罪福を信ずる心」をもって回向を専らにすることをいうから、専心とはいうが弘願の専心ではないということを知らせるために「自力の専心」といわれたのである。
(顕浄土方便化身土文類講讃 梯實圓著)P.408、P.409より引用