十念
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じゅう-ねん
十声の念仏。『大経』第十八願文の「乃至十念」の念は、もと心念の意ともみられる。曇鸞大師は、十念を阿弥陀仏の総相もしくは別相を十たび憶念すること(観の意も含む)、また、阿弥陀仏の名号を十遍称えることと解釈した。善導(ぜんどう大師、法然上人は十念を十声の称名念仏の意に限定したが、これは『観経』の下下品に、「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」とあって、十念の称名念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生できると説かれているのを根拠としたからである。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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圭峰宗密は、『普賢行願品鈔』に、所念の仏の種類に従って、一、称名念仏、二、観像念仏、三、観相念仏、四、実相念仏の四種念仏を説き、次第に浅深があるとして「最後為妙」と断じている。すなわち称名は最も浅劣な念仏であり、実相念仏は最も深妙であるというのである。このような理観を中心とし、称名を浅劣な方便加行とみるのは聖道門の念仏観に共通していた。