あきのれんそう
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以下は、『浄土真宗聖典全書』の実悟師の『天正三年記』p.641以下より抜粋。蓮崇は文書伝道という手法を編み出して現代に至るまで『お文』や『御文章』という、和語の手紙形式によって判り易くご法義を伝える浄土真宗の基底を構築された仁(ひと)でもあった。浄土真宗のご法義が爆発的に大衆に浸透するには、ご法義に燃える門徒という存在が欠かせないのだが、真宗坊主が、ご信心の火の玉のような門徒を育てることを怠ってきたから、やがて消えていく寺に成り下がるのであろうと、越前の蓮如さんの門徒として強く思ふ。どうでもいいけど。
- 安藝法眼事 法名蓮崇
一 文明の初比(ころ)、越前國吉崎御坊御建立也。同國のあさふ津の村仁(むらびと)にて候きが、心さかしき人にてさふらひし間、安藝の國へも往返し侍仁にて候間、安藝と人々いゝつけて侍る人也。
吉崎殿へ参り、御堂に常にまひり、茶所に有て、一文不通の人たるが、晝夜隙なく學問手習して、四十の年より色葉を習ひ、眞物まで書習、聖教等も令書写、淨土の法門心にかけ、才學の人と成て、吉崎殿御内へ望申、奉公を一段心に入られしまゝ、蓮如上人の御意に叶、玄永丹後は傍へ成て、安藝安藝とぞめされける。一段秀たる人にて、法門の御意をも仰せられさふらふ程に、人々も近付而聴聞し侍り、弟子も門徒も出来侍り。
去程に、加州の守護人の富樫助[1]と百姓との取合に成ける。百姓衆と申は、御門徒衆・坊主衆也。仕損じて越中へ退て、吉崎殿へ忍て、惣中より使ひを上申候。此度の軍(いくさ)の様、百姓中難叶さふらふ間、調和興无事に可還住扱さふらふ間、其趣、吉崎殿へ兩使{洲崎藤右衛門入道慶覚 湯涌次良右衛門入堂行法}上りさふらひて、安藝を以て申入處に、兩使申入さふらふ段をば一向不被申入、各別に安藝奏者被申入、涯分致調法、加州へ可切入さふらふ間、各へ被力付様に、御意を以て可被仰付候、涯分可致合戦の由被申入さふらふと、蓮如上人へ申上事さふらふと被披露。[2]
蓮如上人誠と思召、无用と思召さふらへども、左様に談合調法に於ては、是非无くさふらふ。更に御異見に不レ及さふらふ。如何様とも、可レ然様に調可被申と仰出されさふらふと、各別に御意の旨、兩使へ被申付。
兩使は、今の分は難成(なり-がたし)さふらふ由申候へども、如何様とも、各可レ致二馳走一の由、御意さふらふと、兩使に被申付さふらふ。兩使ささふらふ段の御返事、心元なく存さふらひつれども、御意の旨と被申出候間、是非なくさふらひて、富樫を可令成敗の由、御意を直に承度心出来、何様に直に御目にかゝり度さふらふ由、兩使申し候へば、无用とさゝへられさふら間、猶心元なし、何とぞ御目にかゝるべきとの由申さふらふ處に、蓮如上人も直に可被仰の御心にて、可有御見参と仰せられさふらへば、安藝たゞ直に御意までもなく候ふ、安藝委細可申計仰せられて、可然よし申上られさふらふ。
上人は安藝被申さふらふ事は、何事も仰つる間、御目にかゝり候へば、此度骨折也、委細安藝可申と計り仰出されけり。
兩使、是非なく御意と心得て歸國し侍り。蓮如上人は无事に調、兩使も下り侍らんと思しめしけり。越中に歸り各内談申、各同心に難成事(なりがたきこと)とは心得さふらへども、其中にも、是ぞ面白事と、存じさふらふ衆も侍る也。
一 去(さる)文正の比(ころ)、富樫次郎{政親}、弟の幸千代と取合て、次郎は越前に牢人し比、吉崎に御座さふらふ比なれば、いろいろ御扶持さふらひき。然ば國へ歸さふらはゞ、御門徒中の儀、于今疎略すべからずの由申たる旨、次郎を従越前、御門徒人に被仰付、加州山田へ被レ入さふらふより、合戦、利を得さふらひて、幸千代を追拂、次郎、國を手に入、安堵の處に、御恩を忘れ当流の衆を嫌さふらふ事、槻橋と申者所行にさふらふ間、國中の門人槻橋嫌により、國の乱は又出来、百姓等も又仕損じ候て、越中まで退たる事也。{前段は此後の事也}
一 其後、加州に又富樫次郎{政親}、いとこの富樫安高と云を取立て、百姓中合戦し、利運にして次郎政親を討取り、安高を守護としてより、百姓取立の富樫にて候間、百姓等のうでつよく成て、近年は、百姓の持たる國のやうに成行さふらふ事にて候。
然處に、安藝、彌(いよいよ)威勢・分限出來て、吉崎殿寺内に安藝居住の處には土蔵十三立て、一門繁昌し、被官數百人ことごとしく成さふらふて、朝倉弾正左衛門{法名英林}と申者に知音さふらふ。則名字の庶子に成し、{あまう[3]}安藝とそ申しける。上洛し、将軍慈照院殿御被官分に成り、奉公衆一分なり。
數度御内書等被成さふらふ。法眼には将軍家より御成し候。法橋には吉崎殿御成し候。塗輿も武家御所より御免、毛氈鞍覆・唐傘袋まで同前御免にて[4]、威勢无限、玄永丹後は影もなく、蓮如上人は申さるゝ儘に御成さふらふ由、願成就院殿聞召、大津より御下向さふらひて、吉崎殿へ御出さふらひて、蓮如上人船にて御上洛の時、安藝、萬曲言の由を被仰さふらひて、船に曉めされさふらふに、安藝法眼も御船に被乗候を、願成就院殿[5]、愛成(ここなる)は何者ぞと被レ仰、引立させたまひ、船にかゞみ居られさふらふを取て、陸へなげいだされ候へば、礒ぎはに伏沈み、御影の見ゆるまで平臥、泣被レ居さふらひつるが、御船も見へず成りさふらへば、をきあがり御坊に歸り、その儘越前・加賀の御門徒中に勧化せられ、人々尊敬无限さふらふ。總じて安藝、門徒過分に候ひき。夜は朽木を衣の下に被レ付、光に見せなど、種々の事さふらひつる由にさふらふ。
蓮如上人にみやづかひの折節は、皆人々、安藝殿して申入さふらへば、早く出申さふらふとて、名號各申入たるは、安藝私に書て出されさふらふ由に候。その名號、近比まで加州にさふらひつる事候。左様に種々の事候つる。
その後、加州へ被仰付、安藝曲言の由、國中へ被二仰下一さふらふ間、湯湧村と申所、山中に城をこしらへ被レ籠つれば、國中の衆、押寄責られさふらへば、夜中に落行き、越前へ父子ともに落行隠れ居て、數ケ年越前にかゞみ居られ侍を、蓮如上人御往生近くなりて、明應八年二月比より、加州一家中へ、安藝よりより縁を求て、侘言の義さふらへども、誰にても取上べきと思ふ人もなく侍るに、御往生の砌には、山科の近くに上落し、あれこれに付て、色々佗言申入度さふらふ由、申入さふらへども、誰にても可二取次一と申人もなくて侍る所に、蓮如上人三月初比に、北隣坊(蓮綱)・光聞坊(蓮誓)へ被レ仰事に、安藝はいづくにあるとか聞たるぞと被仰。兩所被レ申には、いつくにありとも更に聞不レ申さふらふ。
何と有事さふらふや、不レ聞さふらふと被申さふらへば、三月の中旬には、あらあら不便や、越前の方に可レ居、尋させよ被二仰出一侍るに、兩寺その外一同に談合さふらひて、可二召出一被二思食一事无勿体さふらふ。外聞といひ、曲働の仁にて候間、中々召出さぬ様にとて、何(いず)くにあるとも不二存知一さふらふと、生所もなくさふらふなど、各被二申入一さふらへば、廿日比には、不便なり、尋させよ尋させよと、しきりに仰事あり。既に御往生も近付よと、各も存じさふらふ處、如レ此被仰事にてさふらふ間、如何すべきとて、越前邊にありげに候と被申入さふらへば、人を遣して呼よと被二仰出一可レ被二召出一さふらふ由の御意さふらふ。
上洛仕りさふらへど、山科八町まで上被レ居候ふ間、その旨申上さふらへば、可レ被二召出一と被二仰出一候ふ間、徒にさふらふを被二召出一さふらひては、外聞方々如何と、各申され候へば、実如上人・北隣坊已下も、ささへ御申候ふ様にさふらへば、それは不レ可レ然候。弥陀の本願は悪人を本に御助あるべきとの御本誓なり。
徒者(いたずら-もの)を免(ゆる)すが嘗流の奇模なり、呼出すべしと被仰出候間、廿日比に召出し候ふて、御対面ありければ、安藝法眼忝由被申上、唯涙計、物をも不申分、五体を地になげ馨をあげて、有難由被申、なかれさふらふ計、理も尤の事候ふと、各も感じ被レ申ける。廿五日に御往生に奉レ相、廿六日御葬禮の御供申、唯泣るゝ事のみにて候つるが、やがて廿八日に往生せられ候ひけり。
誠に安藝法眼は不思議の機縁・宿縁、希代なる仁体と、人々申合侍り。主も往生極樂无疑有難事ども也。
右條々、愚老承伝分注付處、御所望之間、悪筆と云ひ文言と云ひ、旁以雖憚入不存隔心、筋目迄令進者也。可被外見止者也。可笑可笑。
- ↑ 富樫助。富樫介か。富樫政親もこと。
- ↑ 百姓・坊主が富樫政親との合戦に負けて越中へ逃げているので、元の在所へかえるように取りなして欲しいと蓮如上人に奏して欲しいと蓮崇に申し入れたが、蓮崇は門徒衆が反撃するので力を貸してくれとの訴えであると奏上したという意か。
- ↑ あまう。別の伝では阿毛とある。
- ↑ 当時は権威失墜の時代であったが、守護の実務を仕切る国人としての守護代には、塗輿、毛氈鞍覆、唐傘袋の使用が認められる格式を与えられて、国人よりも一段高い地位にあった。
- ↑ 願成就院殿、順如(1442-1483)のこと。蓮如上人の長子で本願寺の法嗣とされていたが、上人に先立って四十二歳で病死した。豪放な人であったが酒好きでもあった。