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2014年1月18日 (土) 14:00時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

きょう

 →補註8 (浄文 P.477)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

  • 教とは、正しい道理を説いて人々を諭し、導くこと。仏教では、真実をさとった聖者が未ださとらない迷えるものを導く言葉を「教」という。
  • 「教は暁喩(ぎょうゆ)の義」であるといわれている。暁とは、はっきりとわからせることであり、喩とは、疑問を解いて明瞭に理解させることで、一般には、師が弟子に知識や技術を伝えることをいう。しかし、仏教で「教」といったときは、天台大師が『法華玄義』の上に、教とは「聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり」(大正蔵三三、六八四頁))といい、真実をさとった聖者が、迷えるものを導く言葉を「教」というといわれている。ただし仏教で「教」という場合には「言教(ごんきょう)」、すなわち教えの言葉(文章)を意味するときと、そこにときあらわされている教法、すなわち正しい道理を意味するときがある。(聖典セミナー)

『法華玄義』聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり。[1]

能詮の言教(言語によって表現された教え)、所詮の法義(その教えによってあらわされている内容)