宿善
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御開山には宿善という語は無い。宿善という語をお使いにならなかったのは真実とは何かの根拠を『論註』の「真実功徳釈」によられたからであろう。「真実功徳釈」には凡夫人天の諸善は全て顛倒であり虚偽であるとし、法蔵菩薩の智慧清浄の業より起された菩提心(本願)こそが真実であるとされたからである。衆生の有漏の心より生じる善に往生成仏の因としての意味を認めなかったから宿善という言葉をお使いにならなかった。選択本願の法に遭えた慶びを語るには宿縁という語を使われておられるのもその意である。
浄土宗名目問答 弁長
問 有人云。數遍是自力也 自力難行道 難行道陸路步行 雖苦其身 於往生者 全以不可遂也。
- 問ふ。有る人の云く。數遍はこれ自力なり、自力は難行道なり。難行道は陸路の步行なり。その身を苦しむといえども、往生においては全く以て遂ぐべからざるなり。
一念是他力也 他力是易行道也。易行道乘船水路 安樂其身 於往生速得之此義如何。
- 一念はこれ他力なり、他力はこれ易行道なり。易行道は乘船水路なり。その身を安樂にして往生において速にこれを得と、この義いかん。
答。此事極僻也。其故 云他力者 全馮他力 一分無自力事 道理不可然。
- 答ふ。この事、極たる僻ごとなり。その故は、他力とは全く他力を馮み、一分も自力無しと云ふ事、道理しからず。
云雖無自力善根 依他力得往生者 一切凡夫之輩 于今不可留穢土 皆悉可往生淨土。又一念他力數遍自力者 何人師釋耶。
- 自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべき。
- また一念の他力、數遍の自力とは何なる人師の釋なるや。