安心論題/五重義相
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(14)五重義相
一
蓮如上人当時のあやまった見解ーいわゆる「十劫安心」と「善知識だのみ」をただすために、上人は正しい信心獲得のすがたについて、その始終を「五重の義」としてお示しくださっています。
その五重の義の相状をうかがうのが、この「五重義相」という論題であります。
二
五重の義は『御文章』二帖目第十一通(真聖全三-四四一)に示されています。
①それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。
②そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。
③これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。
④またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。
⑤これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
⑥これによりて五重の義をたてたり。 一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
⑦されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。
右の文の中、①総じて種々の異解があることを歎かれ、②まず十劫安心を出し、③そのあやまりをただされる。次に④善知識だのみを出し、⑤以下そのあやまりをただされる。その中の⑥に五重の義を示されているのです。
したがって、五重の義には直接には善知識だのみをただすために示されたものですが、間接的には前の十劫安心に対する意もあるものとうかがわれます。
三
五重の「五」とは、
(一)宿善。宿世の善根。今生において本願の法にあい、信心喜ぶ身にならせていただくのは、この宿善のおかげであるといわれる。
(二)善知識。本願の法を説いてくださる方。まさしくは釈迦仏であるが、七高僧、宗祖聖人、歴代相承の宗主、更に僧俗を間わず本願の信を勧めてくださる人は、すべて善知識であります。
(三)光明。私どもを照育し摂取してくださる阿弥陀如来の光明。
(四)信心。他力真実の信心。
(五)名号。如来の名号が到り届いて信心となるという意味で、信心の体(ものがら)は名号であると示されたものとも考えられる。しかし、今は信心のあとに出されているので、「真実信心必具名号」(真聖全ニー六八)ー真実信心は必ずあとに称名相続をともなうーという意味で、この場合の名号とは信後の称名を示されたものと見る方が適切でありましょう。
次に五重の「重」というのは、単に五つならべたというのではなく、ちょうど一つの波が次の渡をおこすように、前のものが後をおこし、後のものが前に重なってゆくことを意味します。
そのことは「往生論註』下巻の願偈大意から利行満足までの十章を「十重あり」(真聖全一-三一二)と示されているのと同様であります。
今この五重の次第によれは、「宿善」によって「善知識」にあい、「光明」のおんはたらきによって、「信心」獲得の身となる。その信心がまことであれぱ必ず「名号」が称名念仏として出てくる、という意味になります。ですから、五重の義というのは、正しい信心獲得のすがたについて、その始終をお示しくださったものとうかがわれるのであります。
四
「十劫安心」というのは、十劫の昔に「衆生往生せずぼわれ正覚とらじ」という誓願を成就して阿弥陀仏となられたのであるから、その時すでに私どもの往生は決定している。それを今まで知らなかっただけであるから、これを知って忘れないのが信心である、というように、信心を観念的に理解するものであります。
これに対して、蓮師はそのような理解では他力の信心を得たとはいえないと誠め、阿弥陀仏の救いの法は十劫正覚の始めにすでに成就されているけれども、私どもがその法をよくお聞かせいただいて、信心獲得しなけれぱ往生できない旨を述べられていまず。
つまり十劫安心は、五重の義として示されているような、獲信にいたるまでの過程(プロセス)や、信後のあり方などを全く無視して、理屈だけの空虚なとらえ方をしているものであります。
これは蓮如上人当時にあった誤った見解である、といって済ますことはできないと思われます。私は何もしなくても如来さまの力で、死んだら極楽浄土、こんな気楽で結構な宗旨はないと決めこんで、法座が勤まっていても知らん顔、聞法とか信心安心とかいうことは自分には関係ないとばかり、平気で過ごしている人が現にたくさんいるのではないか。思いここに到れば、蓮師のお言葉は今の私どもに、痛いほどひびいてまいります。
五
「善知識だのみ」は、知識掃命ともいわれます。これは阿弥陀仏に帰命するといっても、現に法を説いてくださる善知識がなけれぱ何にもならないのだから、善知識だけをたのみにすればよいのだ、と善知識に帰命すべきことを主張するものであります。
たしかに、阿弥陀如来のおこころは、生きた人間を通して私どもに伝えられるのであって、私に直接するのは善知識であります。ですから、救いの法を説いてくださる善知識を尊重し敬慕するのは当然でありましょう。しかし、阿弥陀如来をそっちのけにして、善知識を帰命(信)の対象とするならぱ、それは本末転倒といわねばなりません。
そこで、蓮師は善知識だのみの誤りを指摘せられ、善知識は「弥陀に帰命せよ」と勧める使いであって、あくまで帰命すべきは阿弥陀如来である旨を述べられ、更にこれを明らかにするために、五重の義を立てられたのです。
これによって、宿善開発して善知識にあい、その善知識の勧めによって弥陀に帰命する信心を得て、往生決定の身となる旨を示され、「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきことを、大きなる誤りなり」と誠められています。
思うに、善知識が真の正しい善知識であれば、このような善知識だのみは生じないでありましょうし、たとい一部にそういう誤った見解が生じても、善知識がその誤をただしてくださるでありましょう。
しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰ずるところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれば、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。
「この五重の義成就せずば、往生はかなうべからずとみえたり」といわれるのは、宿善から名号(称名)までの五つが往生の因であるという意味ではありません。
宿善・善知識・光明の三つは、信心獲得に到る縁由、すなわちそれらがあってはじめて信心獲得の身にならせていただくのであるといわれるのであり、第五の名号は信後の称名相続をもって信心のまことであることを示されるのであります。
したがって、信心一つが往生の正因であることに変わりはありません。 この五重の義を立てて示されるのは、善知識を尊重するあまり、誤って善知識を帰命(信)の対象とする見解をただされるためであり、また獲信に到る過程や獲信以後の相状といった実態を知らない十劫安心の誤りをただされる意味であります。
「みえたり」というのは、蓮師が勝手に五重の義を立てたのではなく、承けるところがある旨をあらわされます。覚如上人の『口伝紗』「光明名号の因縁という事」(真聖全三ー三)、『執持紗』「光明名号の因縁ということあり」等(真聖全三ー四○)、『本願紗』「真実信心必具名号」等(真聖全三ー五六)、存覚師の『浄士見聞集』「この法を信ぜずばこれ無宿善のひとなり」等(真聖全三ー三七八)、更にその本は『本典』行巻の両重因縁釈(真聖全二ー三三)、『礼讃』前序の「光明名号摂化十方」等(真聖全二一九引用)、これらの文の意を承けていられるのです。
それらの文は、その示される項目の数や順序が必ずしも一様ではありません。それはそれぞれ顕わされる意味が異なるからです。宿善によって善知識にあって光明摂取の益を受けると示すときは「宿善・善知識・光明」の次第、光明の照育によって宿善が成熟すると示すときは「光明・宿善」の次第。
光明によって獲信すると示すときは「光明・信心」の次第、獲信によって光明摂取の益を得ると示すときは「信心・光明」の次第。名号が届いて信心となると示すときは「名号・信心」の次第、真実信心は必ず称名相続すると示ずときは「信心・名号」の次第。
このように、顕わされる意味によって、次第順序も異なっています。
今ここに蓮師の示された五重の義の順序は、『浄土見聞集』の釈相を承けて、一から五までの五重として示されたものであろうと思われます。
『やさしい安心論題の話』灘本愛慈 p158~