慶喜
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きょうき
【左訓】「信をえてのちによろこぶとなり」(浄土 P.561)
慶とは信心を得てよろこぶ心。喜とは心の中に常によろこびのたえないこと。親鸞聖人は、「うべきことを得てのちに、身にも心にもよろこぶ」ことをいうと釈されている。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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親鸞聖人は、救われたよろこびをあらわすのに「歓喜」という場合と「慶喜」という場合とで意味を変えられていた。どちらも身も心もよろこびに満ち澄れるような状況を表す言葉であるが、「歓喜」を、「歓喜は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり」(一多証文p684)といわれるように、まだ実現してはいないが、必ず実現することに決定している事柄を期待をこめてよろこぶ場合の用語であるといわれる。したがって浄土に往生して悟りを得しめられることをかねてからよろこぶという未来形の言びを表すというのである。
それにひきかえ「慶喜」とか「慶楽」は「慶はうべきことをえてのちによろこぶこころなり、楽はたのしむこころなり、これは正定聚の位をうるかたちをあらはすなり」(一多証文p685)といわれるように、既にわが身の上に実現している事柄をよろこぶ場合に用いられるのであった。実現しなければならないことが、すでに実現して今も持続している現在形の喜ぶことばであるといわれるのである。
(梯實圓和上著『一念多念文意講讃』を参照した)