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安心論題/機法一体

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2009年12月27日 (日) 05:27時点における近藤 (トーク | 投稿記録)による版

(12)機法一体

 「機法一体」という言葉は『安心決定鈔』の中に多く見られ、覚如上人の『願願鈔』(真聖全三―四六)や、存覚師の『六要鈔』(真聖全二―二八二)、『存覚法語』(真聖全三―三六六)などにも出ています。それらの文にあては、救われる衆生(機)と救う如来(法)とが一体である、あるいは一体になるという意味で、次のようなさまざまな宗義を「機法一体」として示されています。
⑴往生正覚不二の義
 衆生往生せずば正覚を取らじと誓いたもうて、その本願を成就されたのが果成の南無阿弥陀仏である。すなわち南無阿弥陀仏は衆生の往生(機)と仏の正覚(法)とを不二一体に成就されているということ。これは『安心決定鈔』(真聖全三―六一五等)に多く示されています。
⑵信の法徳として一体になる義
 信心をうれば、仏の功徳の全体が衆生の上にそなわって、仏の功徳に一体となること。『安心決定鈔』に(真聖全三―六二二)、

信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なり。

等と示され、『願願鈔』に(真聖全三―四六)、

信心歓喜すれば機法一体になりて、能照所照ふたつなるににたれどもまったく不二なるべし。

とある。『六要鈔』(真聖全二―二八二)に示されている機法一体も、これと同じ義であります。このような信の法徳のことを、蓮如上人は「仏凡一体」としてお示しくださっています。
⑶彼此三業不離一体の義
 阿弥陀仏の身口意三業によって成就せられた名号を衆生が領受するのであるから、衆生の信後の称名(口業)、礼拝(身業)、憶念(意業)は、仏とあい離れないということ。『安心決定鈔』(真聖全三―六二五等)に出ています。
 このように、「機法一体」という言葉は、さまざまな宗義を示す用語として使われています。
 しかしながら、いま「機法一体」という論題でうかがうのは、主として蓮如上人の『御文章』にお示しくださった「機法一体」の意味についてであります。
 蓮如上人のいわれる機法一体の「機」とは南無帰命の信心であり、「法」とは阿弥陀仏の摂取の願力であります。したがって、衆生の上に発起せしめられる信心と、阿弥陀仏の摂取の願力とは一つの体である、という意味を「機法一体」として明らかにせられます。つまりこれは行信不二の義であります。
 これを仏辺成就の上でいうならば、衆生を南無せしめて摂取したもうのが南無阿弥陀仏であるということになります。またこれを衆生領受の上でいうならば、私どもの南無帰命の信心は阿弥陀仏の摂取の法が届いてくだされたすがたにほかならないということであります。

 「機」というのは法に対する語で、可発の義であるといわれます。これは法によって救われるべき者(衆生)を意味します。けれども、蓮如上人の仰せられる機法一体の「機」とは、南無帰命の信心を指して機といわれます。なぜ信心のことを機というのかと申しますと、南無の信心は救われる衆生(機)の側に発起せしめられるものであるから、この信心を機といわれるのです。宗祖親鸞聖人にあっても、『本典』行巻の念仏諸善比校対論の二機対のところに(真聖全二―四一)、

しかるに一乗海の機を按ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり。

と示されています。これも信心のことを機といわれた用例であります。
 次に「法」というのは、これは機に対する法のことで、阿弥陀仏の救いの法、すなわち衆生を摂取したもう願力のことであります。
 「一体」とうのは、一つの体である、体は一つであるということであります。衆生の南無の信心は、助くる法とは別に、衆生がおこすものではありません。助くる法のおんはたらきによって発起せしめられる信心であります。いいかえますと、衆生に南無せしめて摂取したもうのが阿弥陀仏の法であります。このゆえに機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのです。『御文章』四帖目第十四通に(真聖全三―四九七)、

南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたもうかたの法なるがゆえに、これすなわち機法一体の南無阿弥陀仏ともうすこころなり。

と仰せられています。

 蓮如上人の仰せられる機法一体の釈相をうかがいますと、二字四字分釈のいい方と、六字皆機皆法とされるいい方とが見られます。
 二字四字分釈というのは、「南無」の二字はたのむ機のかた、すなわち衆生の信心とし、「阿弥陀仏」の四字はたすくる法のかた、すなわち摂取の願力、というふうに分けて示され、その南無の機と阿弥陀仏の法とが一体に成就されているのが機法一体の南無阿弥陀仏である、といういい方であります。四帖目第八通(真聖全三―四九)に示される機法一体の釈も、この二字四字分釈にされています。
 これは六字の中で、一応その主たる意味によって、南無を機、阿弥陀仏を法というふうに分けて示されたので、、古来このようないい方を拠勝為論(勝れたところによって、論をなす)といわれています。
 六字皆機皆法というのは、南無阿弥陀仏の六字全体がたすくる法であり、また六字全体がたのむ信であるといういい方です。
 阿弥陀仏のたすくる法は、衆生に南無の信をおこさせて、これを摂取したもう法でありますから、南無を抜きにした阿弥陀仏ではありません。南無を具する阿弥陀仏であります。ですから、南無阿弥陀仏の六字全体がたすくる法であります。これを六字皆法といわれます。一帖目第十五通に(真聖全三―四二三)、

この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたもうという道理なり……これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまえるすがたぞとこころうべきなり。

と仰せられ、五帖目第八通には(真聖全三―五〇五)、

ただわれら一切衆生をあながちにたすけ給わんがための方便に、阿弥陀如来御身労ありて、南無阿弥陀仏という本願をたてましまして、……弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚とらじとちかいたまいて、南無阿弥陀仏となりまします。

等と仰せられています。これは南無阿弥陀仏の六字全体をもって、たすくる法とされるものであります。
 また南無の信は、阿弥陀仏のたすくる法が到り届いてくだされた信であって、阿弥陀仏の法と別なる信心ではありません。衆生に南無せしめて摂取したもう阿弥陀仏の法、すなわち南無阿弥陀仏をその体とする信心であります。これを六字皆機といわれます。三帖目第二通に(真聖全三―四五二)、

さてその他力の信心というは、いかようなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり。

と仰せられ、四帖目第八通には(真聖全三―四九〇)、

当流の信心決定すという体は、すなわち南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとこころうべきなり。

と示され、五帖目第九通にも(真聖全三―五〇六)、

されば、他力の信心をうるというも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字の心なり。

と仰せられています。「しかしながら」とは、すべてそのままという意味です。これらの文は、南無阿弥陀仏のがそのまま衆生の信心となるといういい方で、六字全体をたのむ信の体とされています。
 六字皆法のたすくる法なるがゆえに、その法が衆生に届いて六字皆機の信心となってくださるのです。このように、六字皆機皆法といういい方を古来、尅実通論といわれています。尅実通論というのは実を尅して通論すればという意味で、実義をつきつめていえば、南無阿弥陀仏の全体がたすくる法であり、その南無阿弥陀仏の全体がたのむの信となる、というのであります。
 前の二字四字分釈のいい方は、この六字皆機皆法の宗義をわかりやすく二字と四字とに分けてお示しくださったものといえましょう。
 先哲の歌に、

左文字おせば右文字たすくるの ほかにたすかるこころやはある

というのを聞いたことがあります。判は左文字に彫ってあって、それを紙に押すと、そのまま右文字が現れます。必ず助けるぞよの願力が私に届いたすがたが、お助けを喜ぶ信心であって、仏の助くるのほかに私の助かる心(信)があるのではないという意味でありましょう。
 また、他家の娘が嫁入りしてきて自家の嫁となる。娘と嫁と呼び方は変わっても体は一つです。如来の名号願力が私に届いて信心となってくださるので、名号願力のほかに別に信心があるわけではありません。

 善導大師は『玄義分』の六字釈に(真聖全一―四五七)、

「南無」というはすなわちこれ帰命なり。またこれ発願廻向の義なり。「阿弥陀仏」というはすなわちこれその行なり。この義をもっての故に必ず往生をう。

と解釈せられ、願行具足の故に次の生には必ず浄土に往生できる旨を明らかにしてくださいました。
 親鸞聖人は善導の釈義を承けて、『本典』行巻に六字釈を示され(真聖全二―二二)、南無阿弥陀仏の名号は阿弥陀如来の智慧と慈悲とをまどかにそなえて(悲智円具)、たのみにせよ、よりかかれよ、必ず救う、とよびかけつつある法である旨を顕わしてくださいました。
 蓮如上人はそれらの釈義を承けて、阿弥陀仏の摂取の願力が衆生の信心となるのであって、衆生のたのむの信は阿弥陀仏のたすくるの法のほかにはない。たのむの信(機)とたすくる法とが一南無阿弥陀仏に成就せられているという意味で、機法一体の南無阿弥陀仏ということをお示しくださいました。これによって、他力廻施の信心ということをいよいよ明らかにされたのであります。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p137~