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三心料簡および御法語

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2009年9月27日 (日) 16:06時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版



一、三心料簡事 疏に付て第四仰せ云わく。先ず浄土には悪の雑(まじ)わる善は永く生せずとしるべし。 是を以って(玄)義分には、定即息慮以疑心、散即廃悪以修善、廻此二行求願往生。文 (定はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。散はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。 ) 又散善義に云く、上輩上行上根人、求生浄土断貪嗔。文 (上輩は上行上根の人なり。浄土に生ずることを求めて貪瞋を断ず。) 然れば則ち今此の至誠心の中の嫌う所の虚仮の行者とは余の善諸行也。 三業の精進を勧むと雖も、内に貪嗔邪偽等の血毒雑(まじ)わる故に名づけて雑毒の善雑毒之行と名づく、往生不可と云う也。 是を以って礼讃専雑二行得失中の雑修の失と云う。貪嗔諸見煩悩来りて間断す。 故に此等の雑行を廻して、直ちに報仏浄土へ生れんと欲うは、尤も不可と嫌う道理也。 然に身口二業を以って外と為し、意業一を以って内と為さんとは僻事也。 既に雖起三業と云う 豈意業を除かん乎。 又虚仮とは、狂惑の者と云う事僻事。 既に苦励身心と云う、又日夜十二時急走急作如炙頭然者と云う。文 云何ぞ仮名の行人如此哉、正に是れ雑行者也。 次に所選取之真実者、本願功徳即正行念仏也。

これによれば浄土へは悪の雑わる善を以て往生することはできないが、そのような行とは雑行をさしている。

ずなわち善導は息慮疑心の定散、廃悪修善の散善は、貪嗔煩悩を断じて往生しようとするものであるといわれているが、この至誠心釈において虚仮の行といわれたのは、正しくこのよう定散という要門の余善諸行をさしている。

それは廃悪修善しようとして三業に精進するけれども、現実には内に貪嗔邪偽等の煩悩の血毒が雑わっているからである。

それゆえ雑毒の行善とよばれ、報仏の浄土へ生まれることのできない雑行であるといわれるのである。

尚疏の虚仮の行を誑惑の者とみるのは不当である。なぜならば、すで身心苦励し日夜精進している者であるから決して誑惑者といった仮名の行人ではなく、定散自力の行をはげむ雑行者をさしていたとせねばならない。

また疏の「外現賢善精進、内懐虚仮」といわれた内外と、「雖起三業名為雑毒之善亦名虚仮之行」といわれた三業との関係は、三業全体を外とし、内に煩悩を懐いていることを内といわれたとせねぱならない。 身口三業を外とし、意業を内としたものではない。すなわち雑行は如何に三業を苦励しても、内に煩悩悪性を懐いているか ら雑毒虚仮の行善といわれるのである。

このようた雑行が如来によって選捨されたものであるのに対して、選取せられた真実とは、本願の功徳、すなわち正行たる念仏である。それは『玄義分』のいわゆる弘願にあたる。それは至誠心釈に「阿弥陀仏が因中に真実心の中に作すに由るべし」といわれたものにあたる。すなわち阿弥陀仏因中の真実心中の作に由る行こそ、悪の雑わらない善であるから真実というのである。

そのことは「凡所施為趣求亦皆真実」といわれたものによって知ることができる。施とは、何者に施すのかといえば、次下の深心の第一釈(機の深信)における罪悪生死の几夫に施すのである。

すなわち造悪の凡夫が、この如来より施与せられた真実に由るべき機であることがわかる。それをさらに明確に示しているのが第二釈(法の深信)の「阿弥陀仏四十八願摂受衆生」等といわれたものであるというのである。

この「三心料簡事」によれぱ、至誠心釈の雑毒虚仮の行とは、三業を苦励しながらも、内には煩悩悪性を懐いている雑行をさし、それを誠めたのが「不得外現賢善精進之相、内懐虚仮」の文であるということになる。従ってこの文は親鸞が読まれたように「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読まねばならないことになる。要するにこれは雑行を誠めた文になるのである。また念仏が悪の雑わらぬ真実であるのは、阿弥陀仏の真実心に由って行ずるものだからである。

如来の真実心に由来する行であるということは、如来より施された行であるという意味をあらわしている。それを示しているのが「所施為趣求」という語であるといわれているから、この文は一般的に読まれるような「施為(利他)趣求(自利)するところ」と単に如来の自利利他をあらわすものではなく「施為せられて趣求する」とよむべきである。

すなわち如来から真実なる行を施されて、その行を以て浄土を趣求するという意味になる。親鸞が「凡そ施したまふところ趣求をなす」と読まれたたのも、その意をあらわそうとされたものであろう。