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2005年10月27日 (木) 00:31時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版


2 往生・真実証・浄土

 往生とは、阿弥陀仏の浄土に往き生れることである。阿弥陀仏の浄土は完全に煩悩が寂滅(じゃくめつ)した無為(むい)涅槃界(ねはんがい)であるから、生れるとただちに仏となる。これを「往生即成仏」という。「信巻」(末)に、「念仏の衆生は(中略)臨終一念の夕(ゆうべ)、大般(だいはつ)涅槃を超証す」とあるように、現生(げんしょう)の命を終えるとすぐ、阿弥陀仏の浄土に往生し、ただちに仏となるのである。これを難思議(なんじぎ)往生という。

親鸞聖人は「行巻」に、「往生はすなはち難思議往生なり」と示され、また「証巻」の冒頭に「必至滅度(ひっしめつど)の願、難思議往生」とかかげられている。  必至滅度の願とは第十一願であり、その願文には、「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天(にんでん)定聚(じょうじゅ)に住し、かならず滅度に至らずは、正覚(しょうがく)を取らじ」とある。滅度とは、梵語ニルヴァーナ(nirvāņa)の漢訳で煩悩の寂滅した「さとり」のことであるから、「証巻」は衆生のさとりを明かした巻である。大行(だいぎょう)・大信(だいしん)の因によって得る果であるから、これを真実の証という。

「証巻」に、「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果(ごくか)なり」とある。真実の証とは自身の迷いを完全に脱却するとともに、衆生済度(さいど)が自由自在に可能となることである。このように阿弥陀仏の浄土に往生したのち衆生救済の活動に出ることを還相(げんそう)といい、親鸞聖人は「証巻」の約三分の二にわたって還相の釈をなされている。

 衆生が往生するところの阿弥陀仏の浄土については、「真仏土巻(しんぶつどかん)」においてあきらかにされる。すなわち第十二願、第十三願に報いて完成された浄土であるから、光明無量、寿命無量の徳の実現している真実報土である。それゆえ親鸞聖人は、「土はまたこれ無量光明土なり」と、浄土を光明の世界としてあらわされている。光明とは、智慧のはたらきをあらわしているが、智慧が人々を導き救うすがたが大悲方便であるから、浄土とは大悲の顕現した阿弥陀仏のさとりの世界であることはあきらかである。前に述べたように真実の証果はこの浄土において完成するのであるが、浄土は往相、還相の二回向があらわれでてくる衆生救済の淵源(えんげん)でもある。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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