教行信証六要鈔会本第一 (教)
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顕浄土真実教行証文類序
まさにこの文を釈せんとするに大いに分ちて二と為す。第一に題目を釈し、第二に正しく文を解す。初の中にまた二あり。まず題目を釈し、次に撰号を解す。
先に題を釈する中、十一字の内に、初の一字と後の三字とは能釈の詞なり。中間の七字は所釈の法なり。初に「顕」というは、『広韻』に云わく「呼典の切、明著なり」。『玉篇』に云わく「虚典の切、明なり」。「浄土」というは、弥陀の報土なり。浄土の言は十方に亘るといえども、意は西方に在り。諸の仏刹に超えて最も精たるが故に。「真実」というは、これ仮権に対す。「教行証」とは、いわゆる次の如く所依・所修・所得の法なり。霊芝の『弥陀経義疏』に云わく「大覚世尊一代の教は、大小殊なるといえども、教理行果を出でず。教に因りて理を顕わし、理に依りて行を起こし、行に由りて果を克す。四法にこれを収むるに鮮〈すこ〉しきも尽くさざることなし」已上。教行証と教理行果と、その義は大いに同じ。中に於いて教行の二種は全く同じ。理はこれ教に摂す。彼の『義疏』に云わく「理は即ち教の体なり」。即ちその義なり。証は即ち果なり。果に近遠あり。近果は往生、遠果は成仏なり。証に分極あり。分証は往生、究竟は成仏なり。その義は同じなり。「文類」というは、『広韻』に云わく「文は無分の切、文章なり。また美なり、善なり、兆なり」。『玉篇』に云わく「亡文の切、文章なり」。「類」とは、『広韻』に云わく「力遂の切、等なり」。種類あい似たるなり。その教行証を明かす所の文を類聚するが故なり。「序」とは、いわゆる次・由・述の義なり。今は述序なり。
愚禿釈親鸞述
次に撰号を釈す。「愚禿」というは、「愚」はこれ憃なり。智に対し、賢に対す。聖人の徳は智なり、賢なり。実には愚憃にあらず。今「愚」というは、これ卑謙の詞なり。「禿」は称して姓と為す。第六巻の奥の流通の文に云わく「真宗興隆の大祖源空法師、並びに門徒数輩。罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐〈つみ〉す。或いは僧の儀を改めて、姓名を賜い、遠流に処す。予はその一なり。しかれば已に僧にあらず、俗にあらず。この故に禿の字を以て姓と為す」已上。これはその義なり。「釈」は沙門の姓なり。『増一阿含経』に云わく「四河は海に入って、また河の名なし。四姓は沙門となりて、みな釈種と称す」已上。『四分律』に云わく「四河は海に入りて、また河の名なし。四姓は家を出でて同じく釈氏と称す」已上。これに依るに、晋朝彌天の道安は釈を以て姓を為して、永く後代に伝う。『高僧伝』の中に委しくこの事を判ず。この故に今「愚禿釈」等と云う。「親鸞」というは、これはその諱なり。俗姓は藤原。勘解の相公有国の卿の後、皇太后宮の大進有範の息男なり。昔、山門青蓮の門跡に於いて、その名は範宴少納言の公、後に真門黒谷の門下に入って、その名は綽空、仮実相兼ぬ。しかるに聖徳太子の告命に依りて改めて善信とのたまう。厳師諾あり。これを仮号と為て後に実名を称す。その実名とは今載する所の是れなり。その徳行等、具に別伝の如し。「述」とは『広韻』に云わく「食聿の切。著述なり」。『説文』に「循なり。また作なり」。『玉篇』に云わく「視律の切。循なり」已上。上の訓の中に於いて作の義に依らず、且く循の義に依るなり。故に作といわず。これ卑謙の義なり。『論語』第四述而篇に云わく「子のたまわく、述して作さず。信じて古を好む。竊かに我を老彭に比す」。『註』に云わく「包氏が云わく、老彭は殷の賢大夫なり。好んで古の事を述ぶ。我は老彭のごとし。但しこれを述すらくのみなり」已上。同『疏』に云わく「述而とは孔子の行教を明かす。但し尭舜を述ぶ。自ら老彭に比して制作せざるものなり」已上。
竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。
第二に正しく文を解す。経論釈義の常の例に准依して文を分かちて三と為す。一には序。即ち序分なり。二には標列より下、第六末に『論語』の文を引くに至るまでは、これ正宗分なり。三には「竊以」より下、終わり巻を尽くすに至るまでは流通分なり
第一に序分の中に於いて文を分かちて五と為す。一には文の初より下、「慧日」というに至るまでは、略して彌陀広大の利益を標す。二には「然則」より下、「闡提」というに至るまでは、先ず『観経』に依りて教興の由を明かし、ほぼ済凡救苦の大悲を述ぶ。三には「故知」より下、「崇斯信」に至るまでは、重ねて名号希奇の勝徳を挙げて、特に下機易往の巨益を勧む。四には「噫弘誓」より「莫遅慮」に至るまでは、その聞法宿習の縁を顕して、人をして随喜せしめ、その未来流転の報を悲しみて、堅く疑慮を誡しむ。五には「愚禿」より下は、三国伝来の師訓を受くることを悦びて、聞持する所の実あることを演ぶらくのみ。
初の文の中に就いて「竊以」というは、発端の言、「難思の弘誓」「無礙の光明」は彌陀の徳を讃ず。共にこれ十二光仏の中の名なり。言を綺えてこれを嘆ず。「難度海」とは、これ生死海なり。『十住毘婆沙論』に云わく「彼の八道の船に乗じて、よく難度海を度す」と已上。これ彌陀の利益を讃ずる文なり。故にこの言を用う。「無明」というは、もし天台に依らば、これに通別あり。通惑というは、これ界内の惑、三毒の中の痴煩悩なり。別惑というは、貪・瞋・痴を合して名づけて通惑と為し、塵沙と無明と、この二種の惑を名づけて別惑と為す。「慧日」というは、仏慧の明朗なる、これを日光に譬う。『大経』の下に云わく「慧日は世間を照らして、生死の雲を消除す」已上。憬興の釈に云わく、「慧日とは喩に随うるの名なり。惑・業・苦の三は、よく真空及び智の日月を覆う。即ち雲の虚空と日月とを覆うに同じ。故に生死雲と云う。仏智は真に達して、よく自他の惑・業・苦の障を除くが故に慧日という。物の解を生ぜしめるが故に照世間という」と已上。『浄土論』に云わく「仏慧明浄の日、世の癖闇冥を除く」と已上。鸞師の註に云わく「この二句を荘厳光明功徳成就と名づく。乃至。願じて言わく、我が国土の所見〈所有〉の光明をして、よく痴闇を除きて仏の智慧に入れ、無記の事を為さざらしめん。また云わく、安楽国土の光明は、如来の智慧の報より起るが故に、よく世間の冥を除く」已上。これら皆、朗日の光照に寄せて彌陀の智光を称揚する文なり。また大師は『観経』「唯願仏日」の文を釈して云わく「仏日というは法喩双べて標するなり。譬えば日出でて衆の闇尽く除こるが如し。仏智、光を輝かせば無明の夜日朗かなり」已上。浄影師は同じき経文を釈して云わく、「仏はよく衆生の痴闇を破壊す。日の昏を除くが如し。故に仏日という」と已上。今いう所は、これ釈迦を指す。二仏異なりといえども、仏徳の比況、その義は相い同じ。
しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。
二に先ず『観経』に依って教興の由を明かす中に、「浄邦」というは、これ浄国の指す。もしは楽邦という。即ち極楽なり。「調達」というは、提婆達多なり。共にこれ梵言なり。此に天熱というなり。「闍世」というは、即ち阿闍世なり。『序分義』に云わく「阿闍世とは、乃ちこれ西国の正音。此の地には往翻して未生怨と名づく。また折指と名づく」已上。「逆害を興す」とは、経(観経)に云わく「一の太子あり、阿闍世と名づく。調達悪友の教に随順して、父の王、頻婆沙羅を収執して、幽閉して七重の室の内に置く」已上。序分の七縁は解釈繁多なり。具に引くに遑あらず。悉く彼の文に譲る。「浄業」というは、これ念仏なり。
問う。『観経』に云わく「汝まさに繋念して諦らかに、彼の国を観ずべし。浄業成ずる者なり」已上。大師釈(序分義)して云わく「汝当繋念という已下は、正しく凡惑障深くして心多く散動す、もし頓に攀縁を捨せずば、浄境現ずることを得るに由なきことを明かす。これ即ち正しく安心住行を教う。もしこの法に依るをば名づけて浄業成ずと為すなり」と已上。これ観門を指して以て浄業と為す。また同経(観経)に云わく「また未来世の一切の凡夫の浄業を修せんと欲わん者をして、西方極楽国土に生ずることを得せしめん。彼の国に生ぜんと欲わん者は、まさに三福を修すべし。乃至。かくの如きの三事を名づけて浄業と為す。乃至。この三種の業は過去・未来・現在の三世の諸仏の浄業の正因なり」と已上。これ三福を指して以て浄業と為す。また同経(観経)に云わく「未来世の一切衆生の、煩悩の賊の為に害せられん者の為に、清浄業を説く」已上。釈(序分義)に云わく「説清浄業というは、これ如来は衆生の罪を見そなわすを以ての故に、為に懺悔の方を説きたもうことを明かす。相続をして断除せしめ、畢竟じて永く清浄ならしめんと欲す」已上。これらの経釈は、或いは定観に約し、或いは散善に約し、或いは懺悔に約して浄業の名を立つ。何ぞ念仏といわんや。
答う。ここに於いて一往・再往、顕説・隠説、随他・随自等の差別あるべし。謂わく浄業の名は諸の善法に於いて遮する所なしといえども、もし定散懺悔の方等に約するは、一往・顕説・随他意語なり。出だし難ずる所の諸文これなり。もし念仏を以て清浄業と名づくるは、再往・隠説随自意語なり。即ち「説清浄業」の経文を釈するに二重の釈あり。初重の釈とは問端に備わる懺悔の文これなり。二重の釈に云わく「また清浄というは、下の観門に依りて専心に念仏して想を西方に注めて、念念に罪除こる。故に清浄なり」と已上。これ随自意なり。知る所以は、これ彼の経の持名の付属と、並びに大師の「雖説定散意在専称(定散両門の益を説くと雖も、仏の本願に望むれば、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り)」と釈したもう文の意に依るのみ。
「釈迦」というは今日の教主にして、度沃焦という。「韋提」というは、夫人の名にして、此には思惟という。「選安養」とは経(観経)に云わく「時に韋提希、仏に白して言さく、世尊この諸の仏土は、また清浄にして、みな光明ありといえども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんと楽う」已上。釈(序分義)に曰わく「時韋提白仏より下、皆有光明に至る已来は、正しく夫人は総じて所見を領して仏恩を感荷することを明かす。これ夫人は総じて十方の仏国を見るに、並びに皆精華なれども、極楽の荘厳に比せんと欲するに、全く比況にあらず。故に我今楽生安楽国ということを明かすなり。乃至。「我今楽生弥陀(我、今、極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽う)」已下は、正しく夫人は別して所求を選ぶことを明かす。これ弥陀の本国は四十八願なり、願願みな増上の勝因を発こす。乃至。諸余の経典に勧むる処いよいよ多し。衆聖は心を斉しくして皆同じく指讃す。この因縁ありて如来は密かに夫人を遣わして別して選ばしむることを致すことを明かすなり」已上。問う。夫人の別選は、ただ自選すべし。今「致使如来密遣夫人(如来密かに夫人を遺わして、別して選ばしむることを致す)」という、その意如何。答う。これに二義あり。一義に云わく。韋提は凡夫心想羸劣なり。恐らくはこれ諸の土の勝劣を弁じ難し。この故に如来は密かに神力を加えて選取せしむるなり。一義に云わく。在世は多く権。分極・凡聖、互いに主伴となりて、おのおの仏化を助すく。能化・所化、同じく共に済凡の教を発起す。これ則ち未来の実機を度せんが為なり。『法事讃』に云わく「仏・声聞・菩薩衆と同じく舎衛に遊び祇園に住す」已上。仏与といわず、已に与仏という。能所同心、その意知るべし。密に二義あり。もし初の義に約せば如来は冥にその神力を加するが故に、直ちに夫人をして密かに上の「勧処弥多皆同指讃通別因縁(諸余の経典に勧むる処いよいよ多し。衆聖は心を斉しくして皆同じく指讃す。この因縁ありて如来は密かに夫人を遣わして別して選ばしむることを致す)」を領解せしむ。然るに未だ顕説せず。故に説きて密と為す。もし後義に約せば、如来韋提共に因縁を知る。且く衆会に望めて、これを密と為すなり。
「権化の仁」とは、もし初の義に依らば仏を指す。則ちこれ世雄なり。上下殊るといえども、これ別にあらざるなり。もし後の義に拠らば、通じて調達・闍世・韋提を指す。発起衆なり。「群萌」というは、これ衆生の名なり。衆生の心中に仏種あるが故に、法潤を蒙る類は仏道の芽を生ず。この理は普く一切衆生に通ず。故に「群萌」という。『大経』上に云わく「群萌を拯い、恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」と已上。『玄義』に云わく「甘露を灑ぎて群萌を潤す」と已上。「世雄」というは、これ世尊の名なり。また雄猛という。「逆謗」等とは、重悪の機を挙ぐ。「逆」は謂く五逆なり(第三末に在り)。「謗」は謂わく謗法なり(上に同じ)。「闡提」というは、『涅槃経』に云わく「一闡は信に名づく。提は不具に名づく。信不具の故に一闡提と名づく」と已上。具には一闡提という。今は略して闡提という。彼の『玄義』に「謗法と無信と」という、無信これなり。「無信」というは、仏法を聞くといえども、都て信謗なし。これを以てこれを謂うに、謗法なお重し。
故に知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除きて証を獲しむる真理なり。しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣い、行に迷〈まど〉い信に惑い、心昏く識〈さとり〉寡なく、悪重く障り多きもの、特〈こと〉に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。
三には重ねて名号の勝徳を挙ぐる文の中に、「円融」というは、これ隔歴に対す。乃ちこれ円満融通の義なり。この阿弥陀の三字は即ちこれ空仮中の三諦の理たるが故に名づけて円融至徳の嘉号という。「難信金剛の信楽」等とは、他力真実信心の相なり。「難信」というは、『大経』下に云わく「驕慢と弊と懈怠とは以てこの法を信じ難し」と已上。また云わく「人に信慧あること難し」と已上。また云わく「もしこの経を聞き、信楽受持すること難が中の難なり。この難に過ぎたるはなし」と已上。『小経』に云わく「一切世間のためにこの難信の法を説く。これを甚難と為す」と已上。「金剛」というは、他力の信楽堅固にして動ぜざること喩を金剛に仮る。これ不壊の義なり。問う。金剛の体に於いて幾の徳かありや。答う。『梁の摂論』に云わく「四義あるが故に金剛を以て三摩提に譬う。一にはよく煩悩の山を破す。二にはよく無余の功徳を引く。三には堅実にして破壊すべからず。四には用利にして、よく智慧をして一切の法に通達して無礙ならしむ」已上。今この文に依るに、「疑を除く」というは、よく煩悩を破す。用利は通達無礙の徳なり。「証を獲しむ」というは、よく功徳を引す。堅実の義なり。『金剛頂経の疏(慈覚疏)』に云わく「金剛とは、これ堅固・利用の二義、即ち喩の名なり。堅固を以て実相に譬う。不思議秘密の理は常在不壊なり。利用を以て如来の智用に喩う。惑障を摧破して証極を顕わす」と已上。堅固に由るが故に如来真実の功徳を獲得す。利用に由るが故に疑網所覆の迷を除却するなり。また云わく(金剛頂経 慈覚疏)「世間の金剛に三種の義あり。一には壊すべからず。二には宝中の宝。三には戦具の中の勝」已上。また『梵網の古迹』の上に云わく「金中の精牢を名づけて金剛という」と已上。これ等の文を以て金剛堅固の義を知るべし。問う。出だす所の諸文はみな仏果の功徳を以て彼の金剛に譬う。今は凡夫浅位の信楽に譬う。何ぞ輙くこれに比せん。答う。凡夫所発の信心に似たりといえども、この心は如来選択の願心より発起す。この故に全く凡夫浅位の自力の信にあず。故に、或いは清浄といい、或いは真実という。故に『玄義』に云わく「共に金剛の志を発せば横に四流を超断す」と已上。『散善義』に云わく「この心深信せること、なおし金剛のごとし」と已上。師釈既に爾り。今の釈、失なし。「捷径」というは、速疾の道なり。『宋韻』に云わく「捷、疾葉の切、獲なり、次なり、疾なり、尅なり、勝なり、成なり」。『説文』は「猟なり、軍の獲得なり」。『楽邦文類』に云わく「総官の張掄が云わく、八万四千の法門は、この捷径にしくなし」と已上、第二巻にこれを引く。「如来の発遣」とは、これ釈尊の指授なり。「最勝直道」とは、これ弥陀の願力なり。『散善義』二河の譬喩に云わく「仰いで釈迦の発遣して指えて西方に向えたもうことを蒙り、また弥陀の悲心招換したもうに藉って、今二尊の意に信順して水火の二河を顧みず、念念に遺することなく彼の願力の道に乗じて、捨命已後、彼の国に生ずることを得て、仏とあい見て慶喜すること何ぞ極まらん」と已上。
ああ、弘誓の強縁は、多生にも値〈もうあ〉いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
四に聞法の縁を顕わして人をして随喜せしめ、及び疑慮を誡むるの文、見易し。「真言」というは陀羅尼にあらず。別しては真宗誠言の理に由り、総じては仏語誠実の義に依りて真言というなり。問う。言う所の義に例証ありや。答う。『安楽集』の上に云わく「真言を採集して往益を助成す」已上。また『五会讃』に云わく「これはこれ釈迦三世の諸仏誠諦の真言なり。以て信敬を為すに足れり、依行すべし」と。これはその例なり
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなり。
五に師訓を受くることを悦びて、聞持を述ぶる中に、「西蕃」というは、これ西天なり。正しくは天竺という。西は震旦に対す。即ちこれ月支なり。支にはまた氏を用ゆ。「東夏」というは、即ちこれ震旦なり。東は天竺に対す。夏は中国の名なり。夏は『宋韻』に云わく「大なり、また諸夏、一に曰わく中国の人なり」已上。「真宗」というは、下に至りて詳らかにすべし。