寺檀制度
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じだん-せいど 寺檀制度
江戸時代に制度化された寺院と檀家との関係のこと。檀家制度などともいう。江戸幕府は、すべての人々を特定の寺院に檀家として所属させる制度を整え、檀家がキリスト教など禁制宗旨の信者ではないことを寺院に証明させた。そのことを定期的に確認することを
仏教歴史学者であった千葉 乗隆師の講録『浄土真宗と北陸門徒』には、元和九(1623)年にはおよそ千ヶ寺ぐらいだった寺院数が、元禄七(1694)年には、八千三百五十九寺にのぼったとされる。この急激な寺の増加は1637年に起きた、百姓やキリスト教徒を主体とする「島原の乱」に驚いた幕府が、外国勢力(キリスト教を尖兵として送り込み民衆をてなずけ植民地を獲得する西欧の侵略主義)と結託したキリスト教徒の体制転覆を恐れキリスト教弾圧を意図した
元々、ユダヤ教やキリスト教(カソリックを除く)イスラム教では神を具象化することを偶像崇拝として否定してきた。
その意味において、なんまんだぶといふ口に称えられる名号を文字として「尊号」や「真像」と示して下さった御開山は偶像崇拝を超えておられるのであった。→垂名示形
真宗の寺院を調査しますと、たいていの寺院は蓮如上人なり親鸞聖人にまでその創立を結びつける場合が多くみられます。しかしその実態は真宗寺院のだいたい90%以上は江戸時代のはじめに寺が出来上がったといえます。真宗寺院の数の移り変わりを見て参りますと、南北朝時代の文安六(1449)年の時点ではだいたい二十二ヶ寺ほどです。
それから百年ほどたちまして戦国時代の天文二十四(1555)年には二百五十ヶ寺ほど、それからまた七~八十年ほどたちまして、江戸時代のごくはじめの元和九(1623)年にはおよそ千ヶ寺ぐらいです。
これが七十年後の元禄七(1694)年には西本願寺だけで八千三百五十九となります。(1637年にキリスト教徒を中心に島原の乱)だいたい東もほぼこれに近い数字でございますので、両方合わせますと一万五千~六千になります。
それから安政元(1854)年には西本願寺だけで一万六百六十九ヶ寺です。寛永年間から寛文年間にかけまして、本末制度という寺院の上下関係を定める法令が発布されました。それを契機にしまして道場の寺院化がなされます。
もう一つは寛文年間(1661-1673)に檀家制が設けられます。これは日本全国民が必ずどこかの仏教寺院に所属をしなければいけないという制度です。そうしますと全国民を登録する、寺が必要になってくるわけです。それで各村々に寺が一挙に出来上がってくるのです。こういうふうな檀家制度と本末制度の整備により寺が急増します。➡(2)道場と毛坊主