自覚
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「用管窺天記」から転載
自力によって自力を捨てようとすれば無限遡及に陥るということを記したブログを見て、ふと20数年前に記した文章を思い出したのでサルベージして再掲。
- 知られる私
- 他力とか自力とか物を二つに分けて理解することが、分かるということなのでしょうか。分かるということは字のごとく物を分けることから分かるといいます。ここから我と他、彼と此が出てくるわけですね。だから「我他彼此」(ガタピシ)と毎日忙しいことです。忙という字は心が亡くなると書くぐらいですから。
- さて、私が私を知るということは可能な事なのだろうか。確かに私に知られる側の私は、私によって知ることができますが、知る側の私を私が知る事はできません。知る側の私を私が知ったとき、それは知られている私であって、知る私ではなくなります。
- そうすると知る私であったものが、知られる私になって、これを知る私をまた知ろうとして永遠に無限ループに落ち込みます。
- 例えばお寺参りを始めた婆ちゃん達は「機の深信」の話を聞いてすぐに、私は罪深い者でありました、助からないという自覚の私でありましたと言います。
- そのうち聴聞を重ねますと、私は助からない者でしたと見ている側の私が、実は善人の立場で私を裁いている事に気がついて、この私を罪深いと見ている私こそが、本当に罪深い悪い奴だということになります。
- これではいかんという事で、本当に悪いこの私こそをハッキリ知らせてもらおうと聴聞に励みます。ある宗門(小生も門徒)では機の深信の話が中心ですから、これはいよいよ救いのない私でした、どん底の無有出離の私でしたとなります。
- この頃からは最初なじみのなかった仏教用語も判ったような気になり、仏教用語を使って自分の中の私を見ようとします。宿業とか罪悪感とか罪悪生死の凡夫とかの言葉に囚われて、どちらかというと自虐的な立場が強くなります。
- 聴聞では相変わらず「助からない者を助けると自覚しろ」などとあおるものですから、いよいよに罪の深さを知らにゃぁいかんとなり、また世間や回りを見れば私がこんなに真剣に聴聞しているのに何たることかと、世間に対する働きかけが始まります。自信教人信の教人信の立場に立ちます。
- しかし、ふと自分を考えてみるとそのような立場に立っていた私こそが、実は根本的にどうしようもない奴で、地獄行き間違いのない悪い奴だとなって、地獄行きである私を知らせてもらうためにいっそう聴聞に励みます。
- 聴聞では相変わらず、阿弥陀様のレントゲンに照らされて罪の深さを自覚しろ等の布教師の説教が続けられています・・・・・・・・・・・・。
- かくて私を知るために、知る側の私を否定し、否定した私を否定しこれをまた否定し、四句百非を絶し去ったつもりでまた否定し、と延々と続きます。これを繰り返しますと「ええぃ、もうヤメタ」となって判らないままのお助けと自分で勝手に決めて聴聞にも行かないようになります。
- 小生の田舎には「大きな信心十六ぺん。チョコチョコ安心数知れず」という言葉がありますが、このような事を繰り返してきた先達が、機の深信の話や、布教師にだまされるなよという警句なのなのだと密かに思っています。
- 西の岸の上に人有りて喚ばひて言はく、汝一心正念にして直ちに来れ。我能く汝を護らむ。衆(すべ)て水火の難に堕することを畏れざれ
- と。 有名な二河喩のなかで善導大師は、私のことを【汝】として喚びかけられている側 であり、阿弥陀様を【我】として喚んでいる側であるとお示しです。
- 阿弥陀様が私を知る側で(主体)私は阿弥陀様によって知られる側(客体)です。 私が私を知るのではなく、阿弥陀様の方が私を知っていて下さるのでしたね。
- どうしようもない教育も訂正もできない者と、私を見抜いて下さったからこその ご本願でした。
- 「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひ て、乃至十念せん」
- とあなたが願われたのですから、私には私を知ることもできませんし、このいのち、何処から来て何処へ往くのか、また生も死も私には解りません。
- ただあなたの願いに自分の人生を託して「なんまんだ仏」といのちの意味を見つめていきます。「なんまんだ仏」と声になって下さったあなたとともに、何が起こるか判らない、また何をしでかすか判らないこの私ですがあなたに願われていることの意味を聴き拓かせていただきます。
- あなたが、「もし生ぜずは、正覚を取らじ」と誓って下さってあるので、あなたの言葉どおりに、あなたの処へ、お浄土へ生まれさせて頂くいのちと思い定めて生きさせていただきます。
- あなたの誓願には、度衆生心までも用意しての往生成仏の浄土真宗と宗祖から伺いました。
- あなたのお名前は「南無阿弥陀仏」と伺いました。この上は「なんまんだ仏、なんまんだ仏」とせめてあなたのお名前を称えながら、煩悩のどまんなかで貪愛瞋憎と遊びながら、このいのちを生きてまいります。
御開山の主著である『教行証文類』を、サッパリ訳がわからんと意味も判らず拝読していた頃に記したものではあるが、知られる私としての、「汝としての我の発見」ではあった。私が助かろうとして法をきくのでは無く、私を助ける法が本願力回向のご法義であった。救いの法が、聞くより先にちゃんと届いていたことの驚きであった。ありがたいこっちゃな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ