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後鳥羽院

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2019年12月6日 (金) 08:50時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

ごとばいん

 後鳥羽天皇(1180~1239。在位1183~1198)。承久三年(1221)、北条(ほうじょう)氏追討の院宣(いんぜん)を下して挙兵したが失敗し、隠岐(お き)に配流された(承久の乱)。 (化巻 P.471歎異抄 P.855御伝鈔 P.1053)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

後鳥羽天皇御作無常講式

ウィキペディア(wikipedia):承久の乱

後鳥羽天皇
後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)

即位礼 1184年9月4日元暦元年7月28日
大嘗祭 1184年12月22日(元暦元年11月18日
元号 寿永
元暦
文治
建久
時代 鎌倉時代
摂政 近衛基通松殿師家→近衛基通
九条兼実
関白 九条兼実→近衛基通
先代 安徳天皇
次代 土御門天皇

誕生 1180年8月6日治承4年7月14日)午時
五条町亭
崩御 1239年3月28日延応元年2月22日
隠岐
大喪儀 1239年6月19日(延応元年5月16日
陵所 大原陵、隠岐海士町陵(火葬塚)
漢風諡号 顕徳院
1239年5月(延応元年)諡号勅定
追号 後鳥羽院
(後鳥羽天皇)
1242年8月5日仁治3年7月8日)追号勅定
尊成
別称 良然(法名)
隠岐院
元服 1190年2月9日建久元年1月3日
父親 高倉天皇
母親 坊門殖子(七条院)
中宮 九条任子(宜秋門院)
子女 下記参照
皇居 平安宮
閑院
大炊御門殿
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後鳥羽天皇(ごとばてんのう、旧字体後鳥羽