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ひてておく

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2019年10月27日 (日) 16:57時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

  浸しておく。(一代記 P.1260)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

参照読み込み (transclusion)

この『御一代記聞書』の「わが身をば法にひてておく」の意(こころ)を、梯實圓和上は以下のように述べられておられた。

「わが身をば法にひてておく」

 年を取ると、物忘れがひどくなってきます。仏法を聞いてもすぐに忘れてしまって、聞いているときはなるほどと納得していたのに、後で思い出そうとしても思い出せないというようなわびしい状態になってきます。
そんな悩みを蓮如上人に訴えた人がいました。「私の心は、まるで籠に水を入れるように、いくらおみのりを聞かせていただいても、すぐに忘れてしまって法悦までも消えて、聞かぬ前の状態になってしまうのが情けのうございます」と悲しむ門徒に、上人は「その籠を水につけよ、我が身をば法にひてておくべし」といわれたということです。
仏法についての知識を蓄えようとばかり努めるのは、学習ではあっても、まことの聞法ではありません。肝心のことを聞き落としているからです。私が老耄して、たとえ如来さまを忘れてしまうようなことがあったとしても、私を決して忘れてくださらぬ阿弥陀如来さまのましますことを聞いていないからです
如来の救いを記憶しようとすることは、如来を自分の心の中に取り込もうとしているのであって、目の粗い籠に水をためようとしているようなものです。まことの聞法は、その籠を水につけておくように、自分が如来の大悲に包まれていることを聞いて喜び、如来の大悲にわが身を任せることなのです。忘れることを悲しむよりも、また聞くことを楽しむのです。