来迎
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来迎 らいこう
「らいごう」とも読む。浄土に往生したいと願う人の臨終に、阿弥陀仏が菩薩、
親鸞は『御消息』の第一通で、
- 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。(御消息 P.735)
と述べ、信心を得たときに往生することが定まるのであるから臨終来迎を期することはないと説き、臨終来迎を期するのは諸行往生、自力の行者であるとして、臨終の来迎をたのみにすることを否定されておられる。これをうけた蓮如は『御文章』一帖二通に、「不来迎の談、平生業成の義」(御文章 P.1085) 等と述べている。
なお親鸞は『唯信鈔文意』に、
- 「自来迎」といふは、「自」はみづからといふなり、弥陀無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆゑに、みづからと申すなり。(唯信鈔文意p.701)
等と述べ、来迎の意味を転じ、他力念仏の人が信心獲得より浄土往生の時まで、常に仏・菩薩の来迎にあずかり護念されるという阿弥陀仏の摂取の利益のことして説いている。(『浄土真宗辞典』)