念仏者は無碍の一道なり
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ねんぶつしゃは-むげの-いちどうなり
当該の文について『註釈版』の脚注には、
- 念仏の行者は無礙(無碍)の一道(何ものにもさまたげられないひとすじの道)を歩む者という意。「念仏者は」の「は」を「者」に添えた訓(よ)み仮名とみて、「念仏は」と読む説がある。その場合、念仏は無礙の一道であるという意になるが、いずれにしても念仏の法が無礙道であるから、念仏者は何ものにもさまたげられないことを明かしている。(歎異抄 P.836) →念仏者は…
とある。一部の浄土系新興集団では、南無阿弥陀仏という文字に拘泥し「字」である六字の名号を、正本尊とすべきと骨張するのだが偶像崇拝の一形態であろう。法然・親鸞両聖人が示して下さったご法義では、凡夫の口先に称えられる〔なんまんだぶ〕こそが真如法性から顕現する名体不二の名号度生の浄土真宗の法義であった。
御開山は、本願に選択された「口業(語業)」による成仏法を、
- いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。(行巻 P.180)
とされ、なんまんだぶを称えることによる菩提を証する法をあきらかにされたのであった。これが「念仏は(者)無碍の一道なり」という誓願一仏乗の智慧の文殊の法であった。