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御一代記聞書(現代語)

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2016年10月27日 (木) 23:21時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

蓮如上人御一代記聞書

(1)

勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、上人は、「道徳は今年でいくつになったのか。
道徳よ、念仏申しなさい。
念仏といっても自力と他力とがある。
自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて仏に差しあげ、その称えた功徳によって仏が救ってくださるように思って称えるのである。
他力というのは、弥陀におまかせする信心がおこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなのである。

(2)

 朝の勤行で、『高僧和讃』の「いつつの不思議をとくなかに」から

尽十方の無碍光は、無明のやみをてらしつつ、
一念歓喜するひとを、かならず滅度にいたらしむ

までの六首をおつとめになり、その夜、蓮如上人はこれらのご和讃のこころについてご法話をされたとき、『観無量寿経』の「光明はひろくすべての世界を照らす」という文と、法然上人の、

月かげのいたらぬさとはなけれども、
ながむるひとのこころにぞすむ

月の光の届かないところは一つとしてないが、月はながめる人の心にこそやどる。
という歌とを引きあわせてお話しになりました。
そのありがたさはとても言葉に表すことができません。
蓮如上人が退出された後で、実如上人は、前夜のご法話と今夜のご法話とを重ねあわせてお味わいになり、「まったくいいようのないありがたいご法話であった」と仰せになり、上人の目からはとめどなく涙があふれ出たのでした。

(3)

 勤行のとき蓮如上人が、ご和讃をあげる番になったのを忘れておられたことがありました。
南殿へお戻りになって、「親鸞聖人のご和讃のみ教えがあまりにもありがたいので、自分があげる番になったのをつい忘れていた」と仰せになり、「これほどありがたい聖人のみ教えであるが、それを信じて往生する人は少ない」とお嘆きになりました。

(4)

「<念声是一>.<ねんしょうぜいち>という言葉がありますが、もともと念は心に思うことであり、声は口に称えることですから、これが同じであるというのは、いったいどのような意味なのかわかりません」という質問があったとき、蓮如上人は、「心の中の思いは、おのずと表にあらわれると世間でもいわれている。
信心は南無阿弥陀仏が心に届いたすがたであるので、口に称えるのも南無阿弥陀仏、心の中も南無阿弥陀仏、口も心もただ一つである」と仰せになりました。

(5)

 蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。

(6)

 「南無というのは帰命のことであり、帰命というのは弥陀を信じておまかせする心である。
また、南無には発願回向の意味もある。
発願回向というのは、弥陀を信じておまかせするものに、ただちに弥陀の方からこの上なくすばらしい善根功徳をお与えくださることである。
それがすなわち南無阿弥陀仏である」と、蓮如上人は仰せになりました。

(7)

 加賀の願生と覚善又四郎とに対して、蓮如上人は、「信心というのは、仰せのままにお救いくださいと弥陀におまかせしたそのときに、ただちにお救いくださるすがたであり、それを南無阿弥陀仏というのである。
どれほどわたしたちの罪があろうとも、弥陀におまかせした信心の力によって消してくださるのである」と仰せになり、『浄土真要鈔』の「はかり知れない昔から、迷いの世界をめぐってつくり続けてきた罪は、弥陀を信じて南無阿弥陀仏とおまかせしたそのときに、さとりの智慧をそなえたすぐれた本願の力によって滅ぼされ、この上ないさとりを得るまことの因がはじめて定まるのである」という文を引かれてお話しになりました。
そして、このこころを書き記し掛軸にして、願生にお与えになりました。

(8)

 三河の教賢と伊勢の空賢とに対して、蓮如上人は、「南無というのは帰命のことであり、仰せのままにお救いくださいと、弥陀を信じておまかせする心である。
この帰命の心そのままが、弥陀の発願回向のはたらきを感得する心である」と仰せになりました。

(9)

 「『安心決定鈔』に、<他力の救いを長い間わが身に受けながら、役に立たない自力に執着して、むなしく迷いの世界をめぐり続けてきたのである>とあるのがどうもわかりません」と申しあげたところ、蓮如上人は、「これは、他力の救いを頭で理解しただけで、信じることのできないものをいうのである」と仰せになりました。

(10)

 「『安心決定鈔』に、<弥陀の大悲が、迷いの世界につねに沈んでいる衆生の胸のうちに満ちあふれている>とある言葉がどうも納得できません」と、福田寺の琮俊が申しあげたところ、蓮如上人は、「仏の清らかな心を蓮の花とすれば、その花は衆生の腹の中でというより胸で咲くといった方がぴったりするだろう。

同じ、『安心決定鈔』には、<弥陀の身と心の功徳が、あらゆる世界の衆生の身のうち、心の底までいっぱいに入ってくださる>とも述べられている。
だから、大悲の本願を疑いなく信じて受け取った衆生の心を指して、胸といわれたのである」と仰せになりました。
このお言葉を聞いて琮俊はじめ一同は、ありがたいことだと喜んだのでありました。

(11)

 十月二十八日の逮夜のときに、蓮如上人は、「<正信偈和讃>をおつとめして、阿弥陀仏や親鸞聖人にその功徳を差しあげようと思っているのであれば嘆かわしいことである。
他宗では、勤行などの功徳を回向するのである。
しかし浄土真宗では、他力の信心を十分に心得るようにとお思いになって、親鸞聖人のご和讃にそのこころをあらわされている。
特に、懇切にお書きになった七高僧のお書物のこころを、だれもが聞いて理解できるようにと、ご和讃になさったのであり、そのご恩を十分に承知して、ああ尊いことだと念仏するのは、仏恩の深いことを聖人の御前で喜ばせていただく心なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

(12)

 「お聖教を十分に学び覚えたとしても、他力の安心を決定しなければ無意味なことである。
弥陀におまかせしたそのときに往生は間違いなく定まると信じ、そのまま疑いの心なく臨終まで続く、この安心を得たなら、浄土に往生することができるのである」と仰せになりました。

(13)

 明応三年十一月、報恩講期間中の二十四日の夜明け前、午前二時ごろのことでした。
わたくし空善は、夜を通してご開山聖人の御影像の前でお参りしていたのですが、ついうとうとと眠ってしまい、夢とも現実ともわからないうちに次のようなことを拝見しました。

聖人の御影像がおさまっているお厨子の後ろより、綿を広げたようにかすみがかった中から、蓮如上人がお出ましになったと思って、目を凝らしてよくよく拝見すると、そのお顔は蓮如上人ではなくご開山聖人だったのです。
何と不思議なことかと思って、すぐにお厨子の中をうかがうと、聖人の御影像がありません。
さてはご開山聖人が蓮如上人となって現れ、浄土真宗をご再興なさったのであるといおうとしたところ、慶聞坊が、聖人のみ教えについて、「たとえば木も石も擦るという縁によって火が出るようなものであり、瓦も石ころもやすりで磨くことによって美しい石となるようなものである」という『報恩講私記』の文を引き、説法する声が聞こえて夢から覚めました。
それからというもの、蓮如上人はご開山聖人の生まれ変わりであると、信じるようになりました。

(14)

 「人を教え導こうとするものは、まず自分自身の信心を決定した上で、お聖教を読んで、そのこころを語り聞かせなさい。
そうすれば聞く人も信心を得るのである」と仰せになりました。

(15)

 「弥陀におまかせして救われることがたしかに定まり、そのお救いいただくことをありがたいことだと喜ぶ心があるから、うれしさのあまりに念仏するばかりである。
すなわち仏恩報謝である」と、蓮如上人は仰せになりました。

(16)

 ご子息の蓮淳さまに対して、蓮如上人は、「自分自身の信心を決定した上で、他の人々にも信心を得るよう勧めなさい」と仰せになりました。


(17)

 十二月六日に、蓮如上人が山科の本願寺より摂津富田の教行寺へ出向かれるというので、その前日の五日の夜、たくさんの人が上人のもとへやって来ました。
上人が「今夜はなぜこれほど多くの人が来ているのか」とお尋ねになったところ、順誓が、「一つには、先日の報恩講のときに、ありがたいご法話を聴聞させていただいたことへのお礼のため、もう一つは、明日から富田へ出向かれますが、今日のうちならお目にかかることができます。
それで、年末のお礼を申しあげるために参ったのでしょう」とお答えしました。
そのとき蓮如上人は、「何とも無意味な年末の礼だな。
年末の礼をするのなら、信心を得て礼にしなさい」と仰せになりました。

(18)

 「ときとして、おこたりなまけることがある。
これでは往生できないのではなかろうかと疑い嘆くものもあるであろう。
けれども、すでに弥陀をひとたび信じておまかせし、往生が定まった後であれば、なまけることの多いのは恥ずかしいことであるが、このようになまけることの多いものであっても、お救いいただくことは間違いない。
そのことをありがたいことだ、ありがたいことだと喜ぶ心を、弥陀の本願のはたらきにうながされておこる心というのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(19)

 「すでにお救いいただいた、ありがたいことだと念仏するのがよいのでしょうか、それとも、間違いなくお救いいただく、ありがたいことだとお念仏するのがよいのでしょうか」とお尋ねしたところ、蓮如上人は、「どちらもよい。
ただし、仏になるべき身に定まったという正定聚の利益においては、すでにお救いいただいたと喜ぶ心であり、浄土に往生して必ず仏のさとりを開くという滅度の利益においては、お救いいただくことに間違いはない、ありがたいことだと喜ぶ心である。
どちらも仏になることを喜ぶ心であって、ともによいのである」と仰せになりました。

(20)

 明応五年一月二十三日に、蓮如上人は、攝津富田の教行寺より京都山科の本願寺に戻られて、「今年から、信心のないものには会わないつもりである」と、きびしく仰せになりました。
そして、安心とはこういうものであると、いっそう懇切にお話しになり、また、誓願寺の僧に能を演じさせ、人々に念仏をお勧めになりました。
二月十七日には、はやくもまた富田の教行寺へ出向かれ、三月二十七日には、境の信証院より山科へ戻られました。
翌二十八日に蓮如上人は、「<自信教人信>のこころを人々に説き聞かせるために、こうして行き来しているのである。
行ったり来たりするのも骨の折れることではあるが、出かけて行ったところでは、信心を得て、喜んでくれるので、それがうれしくて、こうしてまたやって来た」と仰せになりました。

(21)

 四月九日に、蓮如上人は、「安心を得た上で、ご法義を語るのならよい。
安心に関わりのないことを語るべきではない。
弥陀を信じておまかせする心を十分に人にも語り聞かせなさい」と、わたくし空善に対して仰せになりました。

(22)

 四月十二日に、蓮如上人は境の信証院へ出向かれました。

(23)

 七月二十日に、蓮如上人は京都山科の本願寺に戻られ、その日のうちに『高僧和讃』の、

五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて
自然の浄土にいたるなれ

さまざまな濁りに満ちた悪世に生きるわたくしたちこそ、決して壊れることのない他力の信心ただ一つで、永久に迷いの世界を捨てて、阿弥陀仏の浄土に往生するのである。

を引いてご法話をされ、さらに次の

金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてける

決して壊れることのない他力の信心が定まるそのときに、弥陀の光明はわたしたちを摂め取り、永久に迷いの世界を離れさせてくださる。

の和讃についてもご法話をされました。
そして、「この二首の和讃のこころを語り聞かせたいと思って、京都に戻ってきた」と仰せになり、「<自然の浄土にいたるなり><ながく生死をへだてける>とお示しくださっている。
何とまあ、うれしく喜ばしいことではないか」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

(24)

 「<南無>の<無>の字を書くときには、親鸞聖人の書き方を守って、<无>の字を用いている」と、蓮如上人は仰せになりました。
そして、「南无阿弥陀仏」を金泥で写させて、それをお座敷にお掛けになり、「不可思議光仏という名も、無碍光仏という名も、ともにこの南無阿弥陀仏の徳をほめたたえた名である。
だから、南無阿弥陀仏の名号を根本としなさい」と仰せになりました。

(25)

 「『正像末和讃』の、

十方無量の諸仏の
証誠護念のみことにて
自力の大菩提心の
かなはぬほどはしりぬべし

すべての世界の数限りない仏がたは真実の言葉で本願他力の救いをお示しになり、お護りくださる。
そのお言葉によって、自力でさとりを求めてもさとりを開くことはできないと知らされるのである。

という一首の心を聴聞させていただきたいのです」と、順誓が申しあげたとき、蓮如上人は、「仏がたはみな弥陀に帰して、本願他力の救いをお示しになるのを役目とされているのである」と仰せになりました。
また、上人は仰せになりました。

世のなかにあまのこころをすてよかし
妻うしのつのはさもあらばあれ

この濁った世において、出家して尼になりたいなどという心は捨てるがよい。
牝牛の角は曲がっているけれども、それはそれでよいのである。

という歌がある。
これはご開山聖人のお詠みになった歌である。
このように外見の姿かたちはどうでもよいことであり、ただ弥陀におまかせする信心が大切であると心得なさい。
世間にも<頭は剃っていても心を剃っていない>という言葉がある」と。

(26)

鳥部野をおもひやるこそあはれなれ
ゆかりの人のあととおもへば

鳥部野に思いを馳せるのはとりわけ悲しい。縁のあった人たちを葬送したところだと思うから。

という歌がある。
これも親鸞聖人のお詠みになった歌である。

(27)

 明応五年九月二十日、蓮如上人は、ご開山聖人の御影像をわたくし空善に下され、ご安置することをお許しになりました。
そのありがたさはとてもいい尽くせないほどでした。

(28)

 同じ年の十一月、報恩講期間中の二十五日に、ご開山聖人の御影像の前で蓮如上人が『御伝鈔』を拝読されて、いろいろとご法話をされました。
そのありがたさはとてもいい尽くせないほどでした。

(29)

 明応六年四月十六日、蓮如上人は京都山科の本願寺に戻られました。
その日、厚めの紙一枚に丁寧に包まれているご開山聖人の御影像の原本を取り出されて、上人ご自身の手でお広げになり、「この御影像の上下にある賛文は、ご開山聖人のご真筆である」とおおせになって、一同のものに拝ませてくださいました。
そして、「この原本は、よほど深いご縁がなくては拝見できるものではない」と仰せになりました。

(30)

「『高僧和讃』に、

諸仏三業荘厳して
畢竟平等なることは
衆生虚誑の身口意を
治せんがためとのべたまふ

仏がたのすべての行いがまことで清らかであり、まったく平等であるのは、衆生の嘘やいつわりの行いを破ってお救いになるためであると、

曇鸞大師は述べておられる。
というのは、仏がたはみな弥陀一仏に帰して、衆生をお救いになるということである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(31)

 「信心を得て、その後信心が続くというのは、決して別のことではない。
最初におこった信心がそのまま続いて尊く思われ、この信心が生涯貫くのを、<億念の心つねに>とも<仏恩報謝>ともいうのである。
だから、弥陀におまかせする信心をいただくことが何よりも大切なのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(32)

 「朝夕に<正信偈和讃>をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。
これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とはならないと思う」というものもありましたが、上人は「どちらの答えもよくない。
<正信偈和讃>は、衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理をお示しくださったのである。

だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

(33)

 「南無阿弥陀仏の六字は、この上なくすばらしい善根功徳をそなえたものであるから、他宗では、この名号を称えて、その功徳をさまざまな仏や菩薩や神々に差しあげ、名号の功徳を自分のもののようにするのである。
けれでも、浄土真宗ではそうではない。

この六字の名号が自分のものであるなら、これを称えてその功徳を仏や菩薩に差しあげることもできるだろうが、名号はわたしたちが阿弥陀仏からいただいたものである。
だから、わたしたちは、ただ仰せのままに浄土に往生させてくださいと弥陀を信じておまかせすれば、ただちにお救いいただくのであり、そのことをありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、念仏するばかりである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(34)

 三河の国より浅井氏の先代の夫人が、蓮如上人にこの世でのお別れのご挨拶をしようと、山科の本願寺にやって来ました。
ちょうど富田の教行寺へ出向かれる日の朝のことでしたので、上人は大変忙しくしておられましたが、それでも夫人にお会いになって、「念仏するのは、名号をただ口に称えてその功徳を仏に差しあげようとするものでは決してない。
仰せのままにお救いくださいとたしかに弥陀を信じておまかせすれば、ただちに仏にお救いいただくのであり、それを南無阿弥陀仏というのである。

だから、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと心に喜ぶのをそのまま口に出して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すのである。
これを仏恩を報じるというのである」と仰せになりました。

(35)

 順誓が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられます。
けれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。
御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。

すると上人は、「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である。
しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。
順誓は、すでにさとりを開いて罪というものはないのか。
そんなことはないだろう。
こういうわけだから、お聖教には、<信心がおこったそのとき、罪が消える>とあるのである」とお答えになりました。

そして、「罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度でも問題にするがよい。
罪が消えてお救いくださるのであろうとも、罪が消えないままでお救いくださのであろうとも、それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが思いはからうべきことではない。
ただ信心をいただくことこそが大切なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

(36)

 「『正像末和讃』に、

真実信心の称名は
弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ
自力の称念きらはるる

真実信心の称名は、阿弥陀如来から衆生に回向された行であるから、法然上人はそれを衆生の側からいえば不回向であると名づけられて、自分の念仏を退けられた。

とある。
弥陀におまかせする信心も、また、尊いことだ、ありがたいことだと喜んで念仏する心も、すべて弥陀よりお与えくださるのであるから、わたしたちが、ああしようかこうしようかとはからって念仏すのは自力であり、だから退けられるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(37)

 無生の生とは、極楽浄土に生まれることをいうのである。
浄土に生まれるのは、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けるというような意味ではなく、生死を超えたさとりの世界に生まれることである。
だから、極楽浄土に生まれることを無生の生というのである。

(38)

 「回向というのは、弥陀如来が衆生をお救いくださるはたらきをいうのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(39)

 「信心がおこるということは、往生がたしかに定まるということである。
罪を消してお救いくださるのであろうとも、罪を消さずにお救いくださるのであろうとも、それは弥陀如来のおはからいである。
わたくしたちが罪についてあれこれいうことは無意味なことである。
弥陀は、信じておまかせする衆生をもとよりめあてとしてお救いくださるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(40)

 「身分や地位の違いを問わず、このようにみなさんと同座するのは、親鸞聖人も、すべての世界の信心の人はみな兄弟であると仰せになっているので、わたしもそのお言葉の通りにするのである。
また、このように膝を交えて座っているからには、遠慮なく疑問に思うことを尋ねてほしい、しっかりと信心を得てほしいと願うばかりである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(41)

 『信文類』の「愛欲の広い海に沈み名利の深い山に迷って、必ず仏になる身と定まったことを喜びもせず、真実のさとりに近づきつつあることを楽しいとも思わない」というお言葉について、お弟子たちが、これをどう理解すればよいのか思い悩み、「愛欲に沈み名利に迷う身で、往生できるのであろうか」、「往生できないのではないか」などと、お互いに論じあっていました。

これを蓮如上人はものを隔てたところからお聞きになって、「愛欲も名利もみなわが身にそなわった煩悩である。
わが身の上をあれこれ心配するのは、自力の心が離れていないということである」とお諭しになり、「ただ弥陀を信じておまかせする他に何もいらない」と仰せになりました。

(42)

 ある日の夕暮れどき、多くの人が取り次ぎも頼まずにやって来ました。
慶聞坊がそれをとがめて、「何ごとか、すぐに退出しなさい」と荒々しく叱りつけたところ、蓮如上人がそれをお聞きになって、「そのように叱るかわりに信心について語り聞かせて返してやってほしいものだ」と仰せになりました。
そして上人が、「信心のことは東西に走りまわってでも話して聞かせたいことである」と仰せになると、慶聞坊は涙を流し、「間違っておりました」とお詫びして、信心についてご法話をされました。
その場にいた人々はみな感動して、とめどなく涙があふれ出たのでした。

(43)

 明応六年十一月、この年蓮如上人は山科本願寺の報恩講においでにならないことになったので、実如上人が法敬坊を使いにやり、「今年は大坂におられるとのことですが、報恩講はどのようにいたしましょうか」とお尋ねになりました。
すると蓮如上人は、今年からは、夕方六時より翌朝六時までの参詣をやめてみな立ち去るようにという御文章をおつくりになって、「このようになさるがよい」と仰せになりました。
また、「御堂に泊まってお護りするものも、その日の当番の人だけにしなさい」とも仰せになりました。
一方で、蓮如上人は七日間の報恩講のうち三日を富田の教行寺でおつとめになり、二十四日には大坂の御坊に出向かれて、おつとめになりました。

(44)

 明応七年の夏より、蓮如上人はまたご病気になられたので、五月七日、「この世でのお別れのご挨拶をするために親鸞聖人の御影前にお参りしたい」と仰せになって、京都山科の本願寺にお戻りになりました。
そしてすぐに、「信心を得ていないものにはもう会わない。
信心を得たものには呼び寄せてでも会いたい、ぜひとも会おう」と仰せになりました。

(45)

 新しい時代の人は、昔のことを学ばなければならない。
また、古い時代の人は、昔のことをよく伝えなければならない。
口で語ることはその場限りで消えてしまうが、書き記したものはなくならないのである。

(46)

 赤尾の道宗がいわれました。
「一日のたしなみとしては、朝の勤行をおこたらないようにと心がけるべきである。
一月のたしなみとしては、必ず一度は、親鸞聖人の御影像が安置されている近くの寺へ参詣しようと心がけるべきである。
一年のたしなみとしては、必ず一度は、ご本山へ参詣しようと心がけるべきである」と。
この言葉を円如さまがお聞き及びになって、「よくぞいった」と仰せになりました。

(47)

 「自分の心のおもむくままにしておくのではなく、心を引き締めなければならない。
そうすると仏法は気づまりなものかとも思うが、そうではなく、阿弥陀如来からいただいた信心によって、心のなごむものである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(48)

 法敬坊は九十の年までご存命でありました。
その法敬坊が、「この年になるまで仏法を聴聞させていただいたが、もう十分聞いた、これまでだと思ったことはない。
仏法を聴聞するのに飽きた、足りたということはないのである」といわれました。

(49)

 山科の本願寺で蓮如上人のご法話があったとき、あまりにもありがたいお話であったので、これを忘れるようなことがあってはならないと思い、六人のものがお座敷を立って御堂へ集まり、ご法話の内容について話しあいをしたところ、それぞれの受け取り方が異なっていました。
そのうちの四人は、ご法話の趣旨とはまったく違っていました。
聞き方が大切だというのはこのことです。
聞き誤りということがあるのです。

(50)

 蓮如上人がおいでになったころ、上人のもとに、熱心に法を聞こうとする人々も大勢集まっていた中で、「この中に、信心を得たものが何人いるであろうか。

 一人か二人か、いるであろうか」などと仰せになり,集まっていた人々はだれもかれも驚いて、「肝をつぶしました」といったということです。

(51)

法敬坊が、「ご法話を聞くときには、何にもかも同じように聞くのではなく、聴聞はかどを聞け」といわれました。
これは、肝心かなめのところでしっかりと聞けということです。

(52)

『報恩講私記』に「憶念称名いさみありて」とあるのは、称名は喜びいさんでする念仏だということである。
信心をいただいた上は、うれしさのあまりいさんで称える念仏なのである。

(53)

 御文章について、蓮如上人は、「お聖教というものは、意味を取り違えることもあるし、理解しにくいところもある。
だが、この文は意味を取り違えることもないだろう」と仰せになりました。
わかりやすく書かれた御文章は、お慈悲のきわまりです。
これを聞いていながら、信じ受け取ることのできないものは、仏法を聞く縁がまだ熟していない人なのです。

(54)

「浄土真宗のみ教えを、この年になるまで聴聞し続け、蓮如上人のお言葉を承っているが、ただ、わたしの愚かな心が、そのお言葉の通りにならない」と、法敬坊はいわれました。

(55)

 実如上人がたびたび仰せになりました。

 「<仏法のことは、自分の心にまかせておくのではなく、心がけて努めなければならない>と蓮如上人はお示しになった。
 愚かな自分の心にまかせていては駄目である。
自分の心にまかせず、心がけて努めるのは阿弥陀仏のはたらきによるのである」と。

(56)

 浄土真宗のみ教えを聞き知っている人はいるけれども、自分自身の救いとして聞くことができる人はほとんどいないという言葉がある。
これは、信心を得るものがきわめて少ないという意味である。

(57)

 蓮如上人は、「仏法のことを話しても、それを世間のことに引き寄せて受け取る人ばかりである。
しかし、それにうんざりしないで、もう一度仏法のことに引き寄せて話をしなさい」と仰せになリました。

(58)

 どのような人であっても、自分は悪いとは思っていない。
そう思っているものは一人としていない。
しかしこれはまったく親鸞聖人からお叱りを受けた人のすがたである。
だから、一人ずつでもよいから、自分こそが正しいという思いをひるがえさなければならない。
そうでないと、長い間、地獄に深く沈むことになるのである。
このようなこともどうしてかといえば、本当に仏法の奥底を知らないからである。

(59)

 蓮淳さまが堺の御坊へ出向かれたとき、

皆ひとのまことの信はさらになし
ものしりがほの風情にてこそ

まことの信心を得た人はきわめて少ない。それなのに、だれもかれもがよくわかってるような顔をしている。

という蓮如上人の歌を、紙に書いて長押にはりつけておかれました。
そして、「わたしがここを発った後で、この歌の意味をよく考えてみなさい」と仰せになりました。
蓮淳さまご自身がよくわからないということにして、人々に問いかけられたのです。
この歌の「ものしりがほ」とは、まことの信心をいただいていないのに、自分はご法義をよく心得ていると思いこんでいるという意味です。

(60)

 法敬坊は、善導大師の六字釈をいつも必ず引用し、安心のことだけを語り聞かせる人でありました。
それでさえ蓮如上人は、「もっと短くまとめて話しなさい」と仰せになるのでした。
これは、言葉を少なくして安心のかなめを語り聞かせなさいとの仰せです。

(61)

 善宗が、「懇志を蓮如上人に差しあげるとき、自分のものを差しあげるような顔をして持ってくるのは恥ずかしいことだ」といわれました。
それを聞いた人が、「どういうことでしょうか」と尋ねたところ、善宗は、「これはみな、阿弥陀如来のおはたらきによって恵まれたものであるのに、それを自分のもののように思って持ってくる。
もとより蓮如上人へ恵まれたものをわたしがお取り次ぎするだけなのに、それをまるで自分のものを差しあげるように思っているのが恥ずかしいのである」といわれました。

(62)

 摂津の国、郡家村に主計という人がいました。
いつも絶えることなく念仏を称えていたので、ひげを剃るとき顔のあちこちを切ってばかりいました。
ひげを剃っていることを忘れて念仏を称えるからです。
「世間の人は、ことさらつとめて口を動かさなければ、わずかの間も念仏を称えることができないのだろうか」と、何とも気がかりな様子でした。

(63)

 仏法に深く帰依した人がいいました。
「仏法は、若いうちに心がけて聞きなさい。
 年を取ると、歩いて法座に行くことも思い通りにならず、法話を聞いていても眠くなってしまうものである。
だから、若いうちに心がけて聞きなさい」と。

(64)

阿弥陀如来は、衆生を調えてくださる。
調えるというのは、衆生のあさましい心をそのままにしておいて、そこへ真実の心をお与えになり、立派になさることである。
人々のあさましい心を取り除き、如来の智慧だけにして、まったく別のものにしてしまうということではないのである。

(65)

わが妻わが子ほど愛しいものはない。
この愛しい妻子を教え導かないのは、まことに情けないことである。
ただそれも過去からのよい縁がなければ、力の及ぶところではない。
しかし、わが身一つを教え導きかないでいてよいものであろうか。

(66)

 慶聞坊がいわれました。
「信心を得てもいないのに、信心を得たような顔をしてごまかしていると、日に日に地獄が近くなる。
うまくごまかしていたとしても、その結果はあらわれるのであり、それで地獄が近くなるのである。
ちょっと見ただけでは信心を得ているのかいないのかわからないが、いつまでも命があると思わずに、今日を限りと思い、み教えを聞いて信心を得なさいと、仏法に深く帰依した昔の人はいわれたものである」と。

(67)

一度の心得違いが一生の心得違いとなり、一度の心がけが一生の心がけとなる。
なぜなら、一度心得違いをして、そのまま命が尽きてしまえば、ついに一生の誤りとなって、取り返しがつかなくなるからである。

(68)

 今日ばかりおもふこころを忘るなよ
さなきはいとどのぞみおほきに

今日を限りの命だと思う心を忘れてはならないぞ。そうでないと、この世のことにますます欲が多くなるから。

覚如上人の詠まれた歌です。

(69)

 他流では、名号よりも絵像、絵像よりも木像という。
だが浄土真宗では、木像よりも絵像、絵像よりも名号というのである。

(70)

 山科本願寺の北殿で、蓮如上人は法敬坊に、「わたしはどのようなことでも相手のことを考え、十のものを一つにして、たやすくすぐに道理がうけとれるように話をしている。
ところが人々は、このことを少しも考えていない」と仰せになりました。
御文章なども、最近は、言葉少なくお書きになっています。
「今はわたしも年老いて、ものを聞いているうちにも嫌気がさし、うっかり聞きもらすようになったので、読むものにも肝心かなめのところをすぐに理解できるように、言葉少なく書いているのである」と仰せになりました。

(71)

 蓮悟さまが幼少のころ、加賀二俣の本泉寺におられたときのことです。
多くの人々が小型の名号をいただきたいと申し出たので、それを蓮悟さまがお取り次になったところ、蓮如上人はその人々に対して、「それぞれみな、信心はあるか」と仰せになりました。
「信心は名号をいただいたすがたである。

 あのときの蓮如上人のお言葉が、今にして思いあたる」と、後に蓮悟さまはお話しになリました。

(72)

 蓮如上人は、「堺の日向屋は三十万貫もの財産を持っていたが、仏法を信じることなく一生を終えたので、仏にはなっていないであろう。
大和の了妙は粗末な衣一つ着ることができないでいるが、このたび仏となるに違いない」と仰せになったということです。

(73)

久宝村の法性が蓮如上人に、「ただ仰せのままに浄土に往生させてくださいと弥陀を信じておまかせするだけで、往生はたしかに定まると思っておりますが、これでよろしいでしょうか」と、お尋ね申しあげたところ、ある人が側から、「それはいつもお聞きしていることだ。
もっと別のこと、わからないことなどをお尋ねしないでどうするのか」と口をはさみました。

そのとき蓮如上人は、「そのことだ、わたしがいつもよくないといっているのは。
だれもかれも目新しいことを聞きたい、知りたいとばかり思っている。
信心をいただいた上は、何度でも心の中の思いをこの法性のように口に出すのがよいのである」と仰せになりました。

(74)

 蓮如上人は、「なかなか信心を得ることができないと口に出して正直にいう人はよい。
言葉では信心を語って、口先は信心を得た人と同じようであり、そのようにごまかしたまま死んでしまうような人を、わたしは悲しく思うのである」と仰せになりました。

(75)

 浄土真宗のみ教えは、阿弥陀如来が説かれたものである。
だから、御文章には「阿弥陀如来の仰せには」とお書きになっている。

(76)

 蓮如上人が法敬坊に、「今いった弥陀を信じてまかせよということを教えてくださった人を知っているか」とお尋ねになりました。
法敬坊が、「存じません」とお答えしたところ、上人は、「では今から、これを教えてくださった人をいおう。
だが、鍛冶や建築などの技術を教わる際にも、お礼の品を差し出すものである。
ましてこれはきわめて大切なことである。
何かお礼の品を差し上げなさい。
そうすればいってあげよう」と仰せになりました。

そこで法敬坊が「もちろん、どのようなものでも差しあげます」と申しあげると、上人は「このことを教えてくださったお方は阿弥陀如来である。
阿弥陀如来が、われを信じてまかせよと教えてくださったのである」と仰せになりました。

(77)

法敬坊が蓮如上人に、「上人のお書きになった六字のお名号が、火事にあって焼けたとき、六体の仏となりました。
まことに不思議なことでございます」と申しあげました。
すると上人は「それは不思議なことでもない。

 六字の名号はもともと仏なのだから、その仏が仏になられたからといって不思議なことではない。
それよりも、罪深い凡夫が、弥陀におまかせする信心ただ一つで仏になるということこそ、本当に不思議なことではないか」と仰せになりました。

(78)

 「日々の食事は、阿弥陀如来、鸞聖人のおはたらきによって恵まれたものである。
だから目には見えなくてもつねにはたらきかけてくださっていることをよくよく心得ておかねばならない」と、蓮如上人は折にふれて仰せになったということです。

(79)

 蓮如上人は、「<噛むとはしるとも,呑むとしらすな>という言葉がある。
噛みしめ味わうことを教えても、鵜呑みにすることを教えてはならないという意味である。
妻子を持ち,魚や鳥の肉を食べ、罪深い身であるからといって、ただそれを鵜呑みにして、思いのままの振舞いをするようなことがあってはならない」と仰せになりました。

(80)

「仏法では、無我が説かれている。
われこそはという思いが少しでもあってはならないのである。
ところが、自分が悪いと思っている人はいない。
これは親鸞聖人からお叱りを受けた人のすがたである」と、蓮如上人は仰せになりました。
仏のお力によって信心を得させていただくのです。
われこそはという思いが決してあってはならないのです。
この無我ということについては、実如上人もたびたび仰せになリました。

(81)

「『浄土見聞集』に、<日ごろからよく心得ていることでも、よき師にあって尋ねると、また得るところがある>と示されている。
この<よく心得ていることを尋ねると、得るところがある>というのが、まことに尊いお言葉なのである」と,蓮如上人は仰せになりました。

そして、「自分の知らないことを尋ねて物知りになったからといって、どれほどすぐれたことがあろうか」とも仰せになりました。

(82)

 「仏法を聴聞しても、多くのものは,自分自身のためのみ教えとは思っていない。
 どうかすると、教えの一つでも覚えておいて、人に説いて聞かせ、その見返りを得ようとすることがある」と、蓮如上人は仰せになりました。

(83)

 「疑いなく信じておまかせするもののことは、阿弥陀如来がよくご存知である。
阿弥陀如来がすべてご存知であると心得て、身をつつしまなければならない。
目には見えなくてもつね如来がはたらきかけてくださっていることを恐れ多いことだと心得なければならない」と、蓮如上人は仰せになリました。

(84)

 実如上人は、「わたしが蓮如上人より承ったことに、特別な教えがあるわけではない。
ただ阿弥陀如来におまかせする信心、これ一つであって、他に特別な教えはないのである。
この他に知っていることは何もない。
このことについては、どのような誓いをたててもよい」と仰せになりました。

(85)

 実如上人は、「凡夫の往生は、ただ阿弥陀如来におまかせする信心一つでたしかに定まる。
もし信心一つで仏になれないというのなら、わたしはどのような誓いをたててもよい。
このことの証拠は、南無阿弥陀仏の六字の名号である。
すべての世界の仏がたがその証人である」と仰せになりました。

(86)

 蓮如上人は,「仏法について語りあう場では、すすんでものをいいなさい。
黙りこんで一言もいわないものは何を考えているかわからず恐ろしい。
信心を得たものも得ていないものも、ともかくものをいいなさい。
そうすれば、心の奥で思っていることもよくわかるし、また、間違って受けとめたことも人に直してもらえる。
だから、すすんでものをいいなさい」と仰せになりました。

(87)

 蓮如上人は、「おつとめの節も十分に知らないで、自分では正しいおつとめをしていると思っているものがいる」と、おつとめの節回しが悪いことを指摘して、慶聞坊をいつもお叱りになっていたそうです。
これにこと寄せて、蓮如上人は、「仏法をまったく知らないものについては、ご法義を誤って受け取っているということすらいえない。
ただ悪いだけである。
だから、悪いと叱ることもない。
けれども、仏法に心を寄せ、多少とも心得のあるものがご法義を誤って受け取るのは、まことに大きなあやまちなのである」と仰せになったとのことです。

(88)

 ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。
わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。
 「何ごとも信心がないから悪いのである。
よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。
信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。

(89)

 お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もありません。
蓮如上人は、「ともかく繰り返し繰り返しお聖教を読みなさい」と仰せになりました。
世間でも,書物は百遍,繰り返し読めば,その意味はおのずと理解できるというのだから、このことはよく心にとどめておかねければなりません。
お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。
その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。
自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。

(90)

 蓮如上人は、「お聖教を拝読するときには、その一言一言が他力の信心の勧めであると受け取っていけば、読み誤ることはない」と仰せになりました。

(91)

 自分だけがと思いあがって,自分一人のさとりで満足するような心でいるのは情けないことである。
信心を得て阿弥陀仏のお慈悲をいただいたからには、自分だけがと思いあがる心などあるはずがない。
阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心もやわらげるとあるのだから、信心を得たものは、おのずとおだやかな心になるはずである。
縁覚は自分一人のさとりに満足し、他の人を顧みないから仏になれないのである。

(92)

 仏法について少しでも語るものは、みな自分こそが正しいと思って話をしている。
けれども、信心をいただいたからには、自分は罪深いものであると思い、仏恩報謝であると思って、ありがたさのあまりに人に話をするものなのである。

(93)

実如上人が順誓に、「<自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするようなものである。
これでは人が承知するはずがない>と,蓮如上人はお示しになった」と仰せになりました。
そして、「『往生礼讃』に<自信教人信>とあるのだから、まず自分自身の信心を決定して、その上で他の人々に信心を勧めるのである。
これが仏恩報謝になるのである。
自分自身の信心を決定してから人に教えて信心を勧めるのは、すなわち仏の大悲を人々にひろく伝える、<大悲伝普化>ということなのである」と続けて仰せになりました。

(94)

 蓮如上人は、「聖教読みの聖教読まずがあり、聖教読まずの聖教読みがある。
たとえ文字一つ知らなくても、人に頼んで聖教を読んでもらい、それを他の人々にも聴聞させて信心を得させるのは、聖教読まずの聖教読みである。
どれほど聖教を読み聞かせることができても、聖教の真意を読み取ることもなく、ご法義を心得ることもないのは、聖教読みの聖教読まずである」と仰せになりました。
「これは、<自信教人信>ということである」と仰せになりました。

(95)

「人前で聖教を読み聞かせるものが、仏法の真意を説きひろめたというためしはない。
 文字も知らない尼や入道などが、尊いことだ、ありがたいことだと、み教えを喜ぶのを聞いて、人々は信心を得るのである」と、蓮如上人は仰せになったということです。
聖教について何一つ知らなくても、仏がお力を加えてくださるから、尼や入道などが喜ぶのを聞いて,人々は信心を得るのです。
聖教を読み聞かせることができても、名声を求めることばかりが先に立って、心がご法義をいただいていないから、人から信用されないのです。

(96)

蓮如上人は、「浄土真宗のみ教えを信じるものは、どんなことでも、世俗的な心持で行うのはよくない。
 仏法にもとづいて、何ごとも行わなければならないのである」と仰せになりました。

(97)

 蓮如上人は、「世間では,何でもうまくこなしてそつがない人を立派な人だというが、その人に信心がないならば、気をつけなければならない。
そのような人は頼りにならないのである。
 たとえ、片方の目が見えず歩くのがままならないような人であっても、信心を得ている人こそ,頼りに思うべきである」と仰せになりました。

(98)

「君を思うはわれを思うなり」という言葉がある。
主君を大切に思ってしたがうものは,おのずと出世するので、自分自身を大切にしたことになるという意味である。
これと同じように、よき師の仰せにしたがって信心を得れば,自分自身が極楽へ往生させていただくことになるのである。

(99)

 阿弥陀仏は,はかり知れない昔からすでに仏である。
本来,仏であるにもかかわらず、人々を救うための手だてとして法蔵菩薩となって現れ、四十八の誓願をたてられたのである。

(100)

 蓮如上人は、「弥陀を信じておまかせする人は、南無阿弥陀仏にその身を包まれているのである」と仰せになりました。
目に見えない仏のおはたらきをますますありがたく思わなければならないということです。

(101)

丹後法眼蓮応が正装して、蓮如上人のもとへおうかがいしたとき、上人は蓮応の衣の襟をたたいて、「南無阿弥陀仏だぞ」と仰せになリました。
また実如上人は、座っておられる畳をたたいて、「南無阿弥陀仏に支えられているのである」と仰せになりました。
この二つの仰せは、前条の「南無阿弥陀仏にその身を包まれている」と示されたお言葉と一致しています。

(102)

蓮如上人は、「仏法を聞く身となった上は、凡夫のわたしがすることは一つ一つが恐ろしいことなのだと心得なければならない。
すべてのことについて油断することのないよう心がけなさい」と、折にふれて仰せになりました。
また、「仏法においては、明日ということがあってはならない。
仏法のことは、急げ急げ」とも仰せになりました。

(103)

 蓮如上人は、「今日という日はないものと思いなさい」と仰せになりました。
上人は、どのようなことでも急いでおかたづけになり、長々と時間をかけることをおきらいになりました。
そして、仏法を聞く身となった上は、明日のことも今日するように、急ぐことをおほめになったのです。

(104)

 蓮如上人は、「親鸞聖人の御影像をいただきたいと申し出るのはただごとではない。
昔は,道場にご本尊以外のものを安置することはなかったのである。
だから、もし信心もなく御影像を安置するのであれば、必ず聖人のお叱りを受けることになるであろう」と仰せになりました。

(105)

「時節到来という言葉がある。
あらかじめ用心をしていて、その上で事がおこった場合に、時節到来というのである。
何一つ用心もしないで事がおこった場合は、時節到来とはいわないのである。
信心を得るということも同じであり、あらかじめ仏法を聴聞することを心がけた上で、信心を得るための縁がある身だとか、ない身だとかいうのである。
とにもかくにも、信心は聞くということにつきるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(106)

 蓮如上人が法敬坊に、「まきたてということを知っているか」とお尋ねになりました。
法敬坊が、「まきたてというのは、畑に一度種をまいただけで、何一つ手を加えないことです」とお答えしたところ、上人は、「それだ。
仏法でも、そのまきたてが悪いのである。
一通りみ教えを聞いただけで、もう十分と思い、自分の受け取ったところを他の人に直されたくないと思うのが、仏法についてのまきたてである。
心に思っていることを口に出して、他の人に直してもらわなければ、心得違いはいつまでたっても直らない。
まきたてのような心では信心を得ることはできないのである」と仰せになりました。

(107)

 蓮如上人は、「どのようにしてでも、自分の心得違いを他の人から直してもらうように心がけなければならない。
そのためには、心に思っていることを同じみ教えを信じる仲間に話しておくべきである。
自分より目下のものがいうことを聞き入れようとしないで、決まって腹を立てるのは、実に情けないことである。
だれからでも心得違いを直してもらうよう心がけることが大切なのである」と仰せになりました。

(108)

 ある人が蓮如上人に、「信心はたしかに定まりましたが、どうかすると、よき師のお言葉をおろそかに思ってしまいます」と申しあげました。
それに対して上人は、「信心をいただいたからには、当然よき師を崇め敬う心があるはずである。
だが、凡夫のどうしようもない性分によって、師をおろそかにする思いがおこったときは、恐れ多いことだと反省し、その思いを捨てなければならない」と仰せになりました。

(109)

 蓮如上人は蓮悟さまに、「たとえ木の皮を身にまとうような貧しいくらしであっても、それを悲しく思ってはならない。
ただ弥陀におまかせする信心を得た身であることを、ありがたく喜ぶべきである」と仰せになりました。

(110)

 蓮如上人は、「身分や年齢の違いにかかわらず、どんな人も、うかうかと油断した心でいると,大切なこのたびの浄土往生ができなくなってしまうのである」と仰せになりました。

(111)

 蓮如上人が歯の痛みで苦しんでおられたとき、ときおり目を閉じ、「ああ」と声をお出しになりました。
みなが心配していると、「人々に信心のないことを思うと、この身が切り裂かれるように悲しい」と仰せになったということです。

(112)

 蓮如上人は、「わたしは相手のことをよく考え、その人に応じて仏法を聞かせるようにしている」と仰せになりました。
どんなことであれ、相手が好むようなことを話題にし、相手がうれしいと思ったところで、また仏法についてお話になりました。
いろいろと巧みな手だてを用いて、人々にみ教えをお聞かせになったのです。

(113)

 蓮如上人は、「人々は仏法を信じることで、このわたしを喜ばせようと思っているようだが、それはよくない。
信心を得れば,その人自身がすぐれた功徳を得るのである。
けれども、人々が信心を得てくれるのなら,喜ぶばかりか恩にも着よう。
聞きたくない話であっても、本当に信心を得てくれるのなら、喜んで聞こう」と仰せになりました。

(114)

蓮如上人は、「たとえただ一人でも,本当に信心を得ることになるのなら、わが身を犠牲にしてでもみ教えを勧めなさい。
それは決して無駄にはならないのである」と仰せになりました。

(115)

 あるとき蓮如上人は、ご門徒がみ教えの心得違いをあらためたということをお聞きになって、大変お喜びになり、「老いた顔の皺がのびた」と仰せになりました。

(116)

 蓮如上人があるご門徒に、「あなたの師がみ教えの心得違いをあらためたが、そのことをうれしく思うか」とお尋ねになったところ、その人は、「心得違いをすっかりあらためられ、ご法義を大切にされるようになりました。
何よりもありがたくうれしく思います」とお答えしました。
上人はそれをお聞きになって、「わたしは、あなたよりももっとうれしく思うぞ」と仰せになりました。

(117)

蓮如上人は、能狂言のしぐさなどを演じさせて,ご法話を聞くことに退屈しているものの心をくつろがせ、疲れた気分をさっぱりとさせて、また新たにみ教えをお説きになるのでした。
実に巧みな手だてであり、本当にありがたいことです。

(118)

 四天王寺の土塔会の祭礼を蓮如上人がご覧になり、「あれほどの多くの人々が、みな地獄へ堕ちていく。
それがあわれに思われる」と仰せになり、また、「だが、信心を得たご門徒は仏になるのである」と仰せになりました。
これもまた、ありがたいお言葉です。

(119)

ご法話をされた後で蓮如上人は、四、五人のご子息たちに、「法話を聞いた後で、四、五人ずつが集まって、話しあいをしなさい。
五人いれば五人とも、決って自分に都合のよいように聞くものであるから、聞き誤りのないよう十分に話しあわなければならない」と仰せになりました。

(120)

 たとえ事実でないことであっても、人が注意してくれたときは、とりあえず受け入れるのがよい。
その場で反論すると、その人は二度と注意してくれなくなる。
人が注意してくれることは、どんなことでも心に深くとどめるようにしなければならない。
このことについて、こんな話しがある。
二人のものが、お互いに悪い点を注意しあおうと約束した。
そこで、一人が相手の悪い行いを注意したところ、相手のものは、「わたしはそうは思わないが、人が悪いというのだからそうなのでしょう」といいわけをした。
こうした返答の仕方が悪いというのである。
事実でなくても、とりあえず「たしかにそうだ」と返事をしておくのがよいのである。

(121)

 一宗の繁昌というのは、人が多く集まり、勢いが盛んなことではない。
たとえ一人であっても、まことの信心を得ることが、一宗の繁昌なのである。
だから、『報恩講私記』に、「念仏のみ教えの繁昌は、親鸞聖人のみ教えを受けた人々の信心の力によって成就する」とお示しくださっているのである。

(122)

 蓮如上人は、「仏法を聴聞することに熱心であろうとする人はいる。
しかし信心を得ようと思う人はいない。
極楽は楽しいところであるとだけ聞いて往生したいと願う人はいる。
しかしその人は仏になれないのである。
ただ弥陀を信じておまかせする人が、往生して仏になるのである」と仰せになりました。

(123)

 すすんで聖教を求め、持っている人の子孫には、仏法に深く帰依する人が出てくるものである。
一度でも仏法に縁があった人は、たとえふだんは大まかであっても、何かの折にはっと気がつきやすく、また仏法に心を寄せるようになるものである。

(124)

 蓮如上人の御文章は、阿弥陀如来の直接のご説法だと思うべきである。
その昔、人々が法然上人について、「姿を見れば法然、言葉を聞けば弥陀の直接の説法」といったのと同じである。

(125)

 ご病床にあった蓮如上人が、慶聞坊に「何か読んで聞かせてくれ」と仰せになったとき、慶聞坊は「御文章をお読みいたしましょうか」と申しあげました。
上人は、「では読んでくれ」と仰せになり、三通を二度ずつ、あわせて六度読ませられて、「自分で書いたものではあるが、本当にありがたい」と仰せになりました。

(126)

順誓が、「世間の人は、自分の前では何もいわずに、陰で悪口をいうといって腹を立てるものである。
だが、わたしはそうは思わない。
面と向かっていいにくいのであれば、わたしのいないところでもよいから、わたしの悪いところをいってもらいたい。
それを伝え聞いて、その悪いところを直したいのである」といわれました。

(127)

蓮如上人は、「仏法のためと思えば、どんな苦労も苦労とは思わない」と仰せになりました。
上人はどんなことでも心をこめてなさったのです。

(128)

「仏法については、大まかな受けとめ方をするのはよくない。
世間では、あまり細かすぎるのはよくないというが、仏法については、細部に至まで心を配り、細やかに心をはたらかせなければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。

(129)

 遠いものがかえって近く、近いものがかえって遠いという道理がある。
「灯台もと暗し」というように、いつでも仏法を聴聞することができる人は、尊いご縁をいただきながら、それをいつものことと思い、ご法義をおろそかにしてしまう。
反対に、遠く離れていてなかなか仏法を聴聞することができない人は、仏法を聞きたいと思って、真剣に求める心があるものである。
仏法は、真剣に求める心で聞くものである。

(130)

 信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように思うべきである。
人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように受け取らなければならない。

(131)

道宗は、「同じお言葉をいつも聴聞しているが、何度聞いても、はじめて耳にするかのようにありがたく思われる」といわれました。

(132)

 「念仏するにも、よい評判を求めているかのように人が思うかもしれないので、人前では念仏しないように気をつけているが、これは実に骨の折れることである」と、ある人がいいました。
普通の人と違った尊い心がけです。

(133)

 ともに念仏する仲間の目を気にして、目には見えない仏の心を恐れないのは、愚かなことである。
何よりも、仏がすべてをお見通しになっていることを恐れ多く思わなければならない。

(134)

「たとえ正しいみ教えであっても、わずらわしく理屈を並べることはやめなければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。
まして、世間のことばかりを話し続けてやめないというのはよくありません。
ますます盛んに勧めなければならないのは、信心のことなのです。

(135)

 蓮如上人は、「仏法では、功徳を仏に差しあげようとする心はよくない。
それは自分の力で功徳を積み、仏のお心にかなおうとする自力の心である。
仏法では、どんなことも、仏恩報謝のいとなみと思わなければならないのである」と仰せになりました。

(136)

人間には、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官があって、これらがちょうど六人の盗賊のように、人間の善い心を奪い取ってしまうのである。
だがそれは、自分の力でさまざまな行を修める場合のことである。
他力の念仏の場合はそうではない。
仏の智慧である信心を得るのであるから、仏の力によってただちに貪り・怒り・愚かさの煩悩もさわりのないものとしてくださる。
だから「散善義」には、「貪りや怒りの心の中に、清らかな信心がおこる」とあり、「正信偈」には、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るくて、闇がないのと同じである」と述べられているのである。

(137)

 わずか一言のみ教えであっても、人はとかく自分に都合のよいように聴聞するものである。
だから、ひたすらよく聞いて、心に受けとめたままを念仏の仲間とともに話しあわなければならない。

(138)

 蓮如上人は、「神に対しても仏に対しても、馴れてくると手ですべきことを足でするようになる。
阿弥陀如来・親鸞聖人・よき師に対しても、慣れ親しむにつれて気安く思うようになるのである。
だが、慣れ親しめば親しむほど、敬いの心を深くしなければならないのは当然のことである」と仰せになりました。

(139)

 口に念仏し身に礼拝するのはまねをすることができても、心の奥底はなかなかよくなるものではない。
だから、力の及ぶ限り、心をよくするよう努めなければならないのである。

(140)

 衣服などでも、自分のものだと思って踏みつけ粗末にするのは、情けないことです。
何もかもすべて親鸞聖人のおはたらきによって恵まれたものなのですから、蓮如上人は、着物などが足に触れたときには、うやうやしくおしいただかれたとお聞きしています。

(141)

 蓮如上人は、「表には王法を守り、心の奥深くには仏法をたもちなさい」と仰せになりました。
また、「世間の倫理も正しく守りなさい」と仰せになりました。

(142)

 蓮如上人は、お若いころ大変苦労されました。
ただひとえに、ご自身の生涯のうちに浄土真宗のみ教えをひろめようと願われた志一つで、このように浄土真宗が栄えるようになったのです。
すべては上人のご苦労によるものです。

(143)

 ご病床にあった蓮如上人が、「わが生涯のうちに浄土真宗をぜひとも再興しようと願った志一つで、浄土真宗が栄えるようになって、みんながこのように安らかに暮らせるようになった。
これもわたしに、目に見えない仏のおはたらきがあったからなのである」と、ご自身をほめて仰せになりました。

(144)

 蓮如上人は、お若いころ粗末な綿入れの白衣を着ておられました。
白無地の小袖なども気軽に着られることはなかったそうです。
このようにいろいろと貧しい暮らしをされたことを折にふれてお話しになり、そのたびに「今の人々はこういう話を聞いて、目に見えない仏のおはたらきをありがたく思わなければならない」と繰り返し仰せになりました。

(145)

蓮如上人は、お若いころ何ごとにも苦労ばかりで、灯火の油を買うだけのお金もなく、かろうじて安い薪を少しずつ取り寄せて、その火の明かりでお聖教をお読みになったそうです。
また、ときには月の光りでお聖教を書き写されることもありました。
足もたいていは冷たい水で洗われました。
また,二、三日もお食事を召しあがらなかったこともあったとお聞きしています。

(146)

「若いころは思い通りに人を雇うこともできなかったので、赤ん坊のおむつも、わたしの手で洗ったものだ」と、蓮如上人は仰せになりました。

(147)

 蓮如上人は、父上の存如上人の使用人をときおり雇って使われたそうです。
その当時、存如上人は人を五人使っておられました。
ですから,蓮如上人はご隠居なさった後も五人だけお使いになりました。
このごろでは、用が多いからといって、思いのままに人を使っていますが、恐れ多く、大変もったいないことだと思わなければなりません。

(148)

蓮如上人は、「昔、仏前に参る人は、襟や袖口だけを布でおおった紙の衣を着ていたものであるが,今では白無地の小袖を着て、おまけに着替えまでも持ってくるようになった。
世の中が乱れていたころは、宮中でも困窮して、いろいろな品を質にお出しになり、ご用立てされたほどである」と例をあげて、贅沢に走ることを注意されました。

(149)

蓮如上人は、「昔は貧しかったので、京の町から古い綿を取り寄せて、自分一人で広げ用いたこともあった。
また,着物も肩の破れたのを着ていた。
白の小袖は美濃絹の粗末なものを求めて、どうにか一着だけ着ることができた」と仰せになりました。
このごろは、上人のこうしたご苦労も知らないで、だれもが豊かな暮らしを当り前のように思っていますが、このようなことでは仏のご加護もなくなってしまうでしょう。
大変なことです。

(150)

「念仏の仲間やよき師には、十分に親しみ近づかなければならない。
<念仏者に親しみ近づかないのは、自力の人の過失の一つである>と、『往生礼讃』に示されている。
悪い人に親しみ近づいていると、自分はそのようにはならないと思っていても,、にふれて悪いことをするようになる。
だから、ただひたすら、深く仏法に帰依した人に親しみ近づかなければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。
一般の書物にも、「人の善悪は、その人が近づき習うものによって決る」、「その人を知ろうと思うなら,その友を見よ」という言葉があります。
また、「たとえ善人の敵となることがあっても、悪人を友とするな」という言葉もあります。

(151)

 「<きればいよいよかたく、仰げばいよいよたかし>という言葉がある。
実際に切りこんでみて、はじめてそれが堅いとわかるのである。
これと同じように、阿弥陀仏の本願を信じて、そのすばらしさもわかるのである。
信心をいただいたなら、仏の本願がますます尊く、ありがたく感じられ、喜ぶ心もいっそう増すのである」と仰せになりました。

(152)

 「凡夫の身でこのたび浄土に往生することは、ただたやすいことだとばかり思っている。
これは大きな誤りである。
『無量寿経』に「難の中の難」とあるように、凡夫にはおこすことのできない信心であるが、阿弥陀仏の智慧のはからいにより、得やすいように成就して与えてくださったのである。
『執持鈔』には、<往生というもっとも大切なことは、凡夫がはからうことではない>と示されている」と、蓮如上人は仰せになりました。
実如上人もまた、「このたびの浄土往生をもっとも大切なことと思って、仏のはからいにまかせる人と、わたしはいつも同じ心である」と仰せになりました。

(153)

「念仏の教えを信じる人もいれば謗る人もいると、釈尊はお説きになっている。
もし信じる人だけがいて、謗る人がいなかったなら、釈尊のお説きになったことは本当なのかと疑問に思うであろう。
しかし、やはり謗る人がいるのだから、仏説の通り、本願を信じる人は、浄土に往生することがたしかに定まるのである」と、蓮如上人はお説きになりました。

(154)

 念仏の仲間がいる前でだけ、ご法義を喜んでいる人がいるが、これは世間の評判を気にしてのものである。
信心をいただいたなら、ただ一人いるときも、喜びの心が湧きおこってくるものである。

(155)

「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。
世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。
仏法においては、明日ということがあってはならない」と、蓮如上人は仰せになりました。
このことは『浄土和讃』にも

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり

たとえ世界中に火が満ちているとしても、ひるまず進み、仏の御名を聞き信じる人は、往生成仏すべき身に定まるのである。

と示されています。

(156)

 法敬坊が次のようにいわれました。
「何人かの人が集まって、世間話をしている最中に、中の一人が突然、席を立った。
長老格の人が、<どうしたのか>お尋ねになると、<大切な急ぎの用件がありますので>といって、立ち去ったのである。
後に<先日はどうして急に席を立ったのですか>と尋ねたところ、その人は、<仏法について話しあう約束があったので、おるにおられず席を立ったのです>と答えた。
ご法義のことは、このように心がけなければならないのである」と。

(157)

 「仏法を主とし、世間のことを客人としなさい」という言葉がある。
仏法を深く信じた上は、世間のことはときに応じて行うべきものである。

(158)

 蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

(159)

 蓮如上人に対して、ある人がご開山聖人ご在世のころのことについて、「これはどういうわけがあってのことでしょうか」とお尋ねしたところ、上人は、「それはわたしも知らない。
どんなことであれ、たとえ、わけを知らないことであって、わたしはご開山聖人がなさった通りにするのである」と仰せになりました。

(160)

 「概して人には、他人に負けたくないと思う心がある。
世間では、この心によって懸命に学び、物事に熟達するのである。
だが、仏法では無我が説かれるからには、われこそがという思いもなく、人に負けて、信心を得るものである。
正しい道理を心得て,我執を退けるのは、仏のお慈悲のはたらきである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(161)

 一心というのは、凡夫が弥陀を信じておまかせするとき、仏の不思議なお力によって、凡夫の心を仏の心と一つにしてくださるから一心というのである。

(162)

 ある人が、「井戸の水を飲むことも仏法のおはたらきによって恵まれたものだから、一口の水でさえ、阿弥陀如来・親鸞聖人のおかげなのだと思っている」といいました。

(163)

 ご病床にあった蓮如上人が、「わたしのことで思い立ったことは、ただちに成しとげることができなくても、ついに成就しなかったということはない。
だが,人々が信心を得るということ、このことばかりは、わたしの思い通りにならず、多くの人がまだ信心を得ていない。
そのことだけがつらく悲しく思われるのである」と仰せになりました。

(164)

 蓮如上人は、「わたしはどんなことも思った通りにしてきた。
浄土真宗を再興し、京都山科に本堂・御影堂を建て、本願寺住職の地位も譲り、大坂に御堂を建てて、隠居の身となった。
『老子』に<仕事を成しとげ、名をあげた後、引退するのは天の道にかなっている>とあるが、わたしはその通りにすることができた」と仰せになりました。

(165)

 「夜、敵陣にともされている火を見て、あれは火でないと思うものはいない。
それと同じように、どんな人が申したとしても、蓮如上人のお言葉をその通りに話し、上人の書かれたものをそのまま読んで聞かせるのであれば、それは上人のお言葉であると仰ぎ、承るべきである」といわれました。

(166)

 蓮如上人は、「ご法義のことは、詳しく人に尋ねなさい。
わからないことは何でも人によく尋ねなさい」と、折にふれて仰せになりました。
「どういう人にお尋ねしたらよろしいのでしょうか」とおうかがいしたところ、「ご法義を心得ているものでありさえすれば、だれかれの別なく尋ねなさい。
ご法義は、知っていそうにもないものがかえってよく知っているのである」と仰せになリました。

(167)

 蓮如上人は無地のものを着ることをおきらいになりました。
「紋のない無地のものを着るといかにも僧侶らしくありがたそうに見えてしまう」という仰せでありました。
また、墨染めの黒い衣を着て訪ねて来る人がいると、「身なりのただしいありがたいお坊さまがおいでになった」とからかって、「いやいや、わたしのようなものは、全然ありがたくない。
ただ弥陀の本願だけがありがたいのである」と仰せになりました。

(168)

 蓮如上人は、小紋染めの小袖をつくらせて、大坂御坊の居間の衣掛けに掛けておかれたそうです。
 
(169)

 蓮如上人は、お食事を召しあがるときは、まず合掌されて、「阿弥陀如来と親鸞聖人のおはたらきにより、着物を着させていただき、食事をさせていただきます」と仰せになりました。

(170)

 「人は上がることばかりに気を取られて、落ちるところのあることを知らない。
ひたすら行いをつつしんで、たえず、恐れ多いことだと、何ごとにつけても気をつけるようにしなければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。

(171)

 「往生は一人一人の身に成就することがらである。
一人一人が仏法を信じてこのたび浄土に往生させていただくのである。
このことを人ごとのように思うのは、同時に一方で自分自身を知らないということである」と、円如さまは仰せになりました。

(172)

 大坂御坊で、ある人が蓮如上人に、「今朝、まだ暗いうちから、一人の老人が参詣しておられました。
まことに立派な心がけです」と申しあげたところ、上人はすぐさま、「信心さえあれば、どんなこともつらいとは思わないものである。
信心をいただいた上は、すべてを仏恩報謝と心得るのであるから、苦労とは思わないのである」と仰せになりました。
その老人というのは、田上の了宗であったということです。

(173)

 山科本願寺の南殿に人々が集まり、ご法義をどのように心にうけとめるかあれこれと論じあっているところに、蓮如上人がおいでになって、「何をいっているのか。
あれこれ思いはからうことを捨てて、疑いなく弥陀を信じおまかせするだけで、往生は仏よりお定めくださるのである。
その証拠は南無阿弥陀仏の名号である。
この上、いったい何を思いはからうというのか」と仰せになりました。
このように蓮如上人は、人々が疑問に思うことなどをお尋ねしたときも、複雑なことをただ一言で、さらりと解決してしまわれたのです。

(174)

 蓮如上人は、

おどろかすかひこそなけれ村雀
耳なれぬればなるこにぞのる

群がる雀を驚かして追いはらう鳴子の音も、今では効き目がなくなった。
耳なれした雀たちは、平気で鳴子に乗っている。

という歌をお引きになって、「人はみな耳なれ雀になっている」と折りにふれて仰せになりました。

(175)

 「仏法を聞いて、心の持ちようをあらためようと思う人はいるけれども、信心を得ようと思う人はいない」と、蓮如上人は仰せになりました。

(176)

 蓮如上人は、「方便を悪いということはあってはならない。
方便によって真実が顕され、真実が明らかになれば方便は廃されるのである。
方便は真実に導く手だてであることを十分に心得なければならない。
阿弥陀如来・釈尊・よき師の巧みな手だてによって、わたしたちは真実の信心を得させていただくのである」と仰せになりました。

(177)

 蓮如上人の御文章は、凡夫が浄土に往生する道を明らかに映しだす鏡である。
この御文章の他に浄土真宗のみ教えがあるように思う人がいるが、それは大きな誤りである。

(178)

「信心をいただいた上は、仏恩報謝の称名をおこたることがあってはならない。
だが、これについて、心の底から尊くありがたく思って念仏するのを仏恩報謝であると考え、何という思いもなくふと念仏するのを仏恩報謝ではないと考えるのは、大きな誤りである。
自然に念仏が口に出ることは、仏の智慧のうながしであり、仏恩報謝の称名である」と、蓮如上人は仰せになりました。

(179)

 蓮如上人は、「信心をいただいた上は、尊く思って称える念仏も、また、ふと称える念仏も、ともに仏恩報謝になるのである。
他宗では、亡き親の追善供養のために、あるいはまた、あれのためこれのためなどといって、念仏をさまざまに使っている。
けれども、親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀を信じおまかせするのが念仏なのである。
弥陀を信じた上で称える念仏は、どのようであれ、すべて仏恩報謝になるのである」と仰せになりました。

(180)

 「蓮如上人がご存命のころ、山科本願寺の南殿であったでしょうか、ある人が蜂を殺してしまって、思わず念仏を称えました。
そのとき、上人が、<あなたは今どんな思いで念仏を称えたのか>と、お尋ねになったところ、その人は、<かわいそうなことだと、ただそれだけを思って称えました>と答えました。
すると上人は、<信心をいただいた上は、どのようであっても、念仏を称えるのは仏恩報謝の意味であると思いなさい。
信心を頂いた上での念仏は、すべて仏恩報謝になるのである>と仰せになりました」と、このようなことを伝えた人がいました。

(181)

 山科本願寺の南殿で、蓮如上人は、暖簾をあげて出てこられる際に、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えて、「法敬よ、今わたしがどのような思いで念仏を称えていたかわかるか」とお尋ねになりました。
法敬坊が「まったくわかりません」とお答えすると、上人は、「今、念仏を称えたのは、阿弥陀仏がこのわたしをお救いくださることをうれしいことだ、尊いことだと喜ぶ心なのだよ」と仰せになりました。

(182)

 蓮如上人に対して、西国から来たという人が、安心について受けとめているところを申しあげたとき、上人は「心の中が今いわれた通りであるのなら、それがもっとも大切なことである」と仰せになりました。

(183)

 蓮如上人は、「ただいま、どなたも口では、安心について受けとめているところを同じように申された。
そのように言葉の上だけで同じようにしているから、信心が定まった人とまぎれてしまい、往生することができない。
わたしはそのことを悲しく思うのである」と仰せになりました。

(184)

 「信心をいただいたからには、それほど悪いことはしないはずである。
あるいは、人にいわれたからといって、悪いことをするようなことはないはずである。
このたび迷いの世界の絆を断ち切って、浄土に往生しようと願う人が、どうして悪いと思うわれるようなことをするであろうか」と、蓮如上人は仰せになりました。

(185)

 蓮如上人は、「仏法は、簡潔にわかりやすく説きなさい」と仰せになりました。
また、法敬坊に対して、「信心・安心といっても、聞く人の多くは文字も知らないし、また、信心・安心などというと別のもののようにも思ってしまう。
だから、わたしたちのような凡夫が弥陀のお力で仏になるということだけを教えなさい。
仰せのままに浄土に往生させてくださいと弥陀を信じておまかせすることを勧めなさい。
そうすれば、どんな人でもそれを聞いて信心を得るであろう。
浄土真宗には、これ以外の教えはないのである」と仰せになりました。

『安心決定鈔』には、「浄土のみ教えは、第十八願をしっかりと心得る以外にはない」とあります。
ですから、上人は、御文章に、「仰せのままにお救いくださいと疑いなく仏におまかせするものを、たとえ罪はどれほど深くても、弥陀如来は必ずお救いくださるのである。
これが第十八願の念仏往生の誓願の心である」とお示しくださっているのです。

(186)

 「信心を得ていないから悪いのである。
ともかくまず信心を得なさい」と、蓮如上人は仰せになりました。
上人が悪いことだといわれたのは、信心がないことを悪いといわれたのです。
このことについて、次のような話しがあります。
上人がある人に向かって「お前ほど悪いものはない。
言語道断だ」と仰せになたところ、その人は「何ごとも上人のお心にかなうようにと思っておりますが、悪いところがあるのでしょうか」とお答えしました。
すると上人は、「まったく悪い。
信心がないのは悪くはないのか」と仰せになったということです。

(187)

 蓮如上人が、「どんなことを聞いても、わたしの心は少しも満足しない。
一人でもよいから、人が信心を得たということを聞きたいものだ」と独り言をおっしゃいました。
「わたしは生涯を通して、ただ人々に信心を得させたいと願ってきたのである」と仰せになりました。

(188)

 「親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀におまかせする信心がもっとも大切なのである。
だから、弥陀におまかせするということを代々の上人がたがお示しになってこられたのであるが、人々はどのようにおまかせするのかを詳しく知らなかった。
そこで、蓮如上人は本願寺の住職になられると、御文章をお書きになり、<念仏以外のさまざまな行を捨てて、仰せのままに浄土に往生させてくださいと疑いなく弥陀におまかせしなさい>と明らかにお示しくださったのである。
だから、蓮如上人は浄土真宗ご再興の上人といわれるのである」と仰せになりました。

(189)

 「善いことをしてもそれが悪い場合があり、悪いことをしてもそれが善い場合がある。
善いことをしても、自分はご法義のために善いことをしたのだと思い、自分こそがという我執の心があるなら、それは悪いのである。
悪いことをしても、その心をあらためて、弥陀の本願を信じれば、悪いことをしたのが、善いことになるのである」というお示しがあります。
そういうわけで、蓮如上人は、「善いことをしてその功徳を仏に差しあげようとする自力の心が悪い」と仰せになったのです。

(190)

 蓮如上人は、「思いもよらない人が過分の贈物を持ってきたときは、何かわけがあるに違いないと思いなさい。
人からものを贈られると、うれしく思うのが人の心だから、何かを頼もうとするときは、人はそのようなことをするものである」と仰せになりました。

(191)

 蓮如上人は、「行く先だけを見て、自分の足元を見ないでいると、つまずくに違いない。
他人のことだけを見て、自分自身のことについて心がけないでいると、大変なことになる」と仰せになりました。

(192)

 よき師の仰せではあるが、これはとうてい成就しそうにないなどと思うのは、大変嘆かわしいことです。
成就しそうにないことであっても、よき師の仰せならば、成就すると思いなさい。
この凡夫の身が仏になるのだから、そのようなことはあるはずがないと思うほどのことが他に何かあるでしょうか。
そういうわけで、赤尾の道宗は、「もし蓮如上人が、<道宗よ、琵琶湖を一人で埋めなさい>と仰せになったとしても、<かしこまりました>とお引き受けするだろう。
よき師の仰せなら、成就しないことがあろうか」といわれたのです。

(193)

 「< きわめて堅いものは石である。
  きわめてやわらかいものは水である。
  そのやわらかい水が堅い石に穴を  あけるのである。
  心の奥底まで徹すれば、どうして仏の  さとりを成就しないことがあろうか >と  いう古い言葉がある。
  信心を得ていないものであっても、真剣に  み教えを聴聞すれば、仏のお慈悲によって、  信心を得ることができるのである。
  ただ仏法は聴聞するということにつきるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(194)

 蓮如上人は、「信心がたしかに定まった人を見て、自分もあのようにならなくてはと思う人は、信心を得るのである。
あのようになろうとしても、なれるはずがないとあきらめるのは嘆かわしいことである。
仏法においては、命をかけて求める心があってこそ、信心を得ることができる」と仰せになりました。

(195)

「他人の悪いところはよく目につくが、自分の悪いところは気づかないものである。
もし自分で悪いと気づくようであれば、それはよほど悪いからこそ自分でも気がついたのだと思って、心をあらためなければならない。
人が注意をしてくれることに耳を傾け、素直に受け入れなければならない。
自分自身の悪いところはなかなかわからないものである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(196)

「世間のことを話しあっている場で、かえって仏法の話しが出ることがある。
そのようなときは、われ先にものをいわないで人並みに振舞っておきなさい。
どのような考えの人がいるかわからないのだから、注意をおこたってはならない。
けれども、念仏の仲間が集まって、お聖教の講釈を聞いて学ぶときや、仏法について語りあったりするときに、少しもものをいわないのは、大きな誤りである。
仏法について語りあう場では、心の中をすべて打ち明け、互いに、信心を得ているかいないかについて語らなければならない」と仰せになりました。

(197)

 ある人が金森の善従に、「このごろは、あなたもさぞかし退屈でつまらないことでしょう」といったところ、善従は、「わたしは八十を超えるこの年まで、退屈と感じたことはありません。
というのも、弥陀のご恩のありがたさを思い、ご和讃やお聖教などを拝読していますので、心は晴ればれと楽しく、尊さでいっぱいです。
だから、少しも退屈ということがないのです」といったということです。

(198)

 実如上人が善従の逸話を紹介して、「ある人が善従の住いを訪ねたとき、まだ履物も脱がないうちから、善従が仏法について話し始めた。
側にいた人が、<履物さえまだ脱いでおられないのに、どうしてそのように急いで話しをはじめるのですか>というと、善従は<息を吐いて吸う間もないうちに命が尽きてしまう無常の世です。
もし履物を脱がないうちに、命が尽きたらどうするのですか>と答えたのであった。
何をおいても、仏法のことはこのように急がなければならないのである」と仰せになりました。

(199)

 蓮如上人が善従のことについて、「まだ山科の野村に本願寺を建立するという話もなかったころ、神無森というところを通って、金森へ帰る途中で、善従は輿から降り、野村の方向を指して、<この道すじで仏法が栄えるであろう>といった。
つきそっていた人々は、<年老いてしまったからこんなことをいうのだ>などささやいていたのだが、ついにその地に本願寺が建ち、仏法が栄えることとなった。
不思議なことである」と仰せになりました。
また上人は、「善従は法然上人の生れ変わりであると、世間の人々はいっている」とも仰せになりました。
善従が往生したのは、八月の二十五日でした。

(200)

 「東山の大谷本願寺が比叡山の法師たちによって打ち壊されたとき、蓮如上人は避難されれ、どこにおいでになるのかだれも知らなかったのだが、善従があちらこちら訪ね捜して、あるところで上人にお会いすることができた。
そのとき、上人はたいそうお困りの様子であったので、<このありさまを見ると、善従もきっと悲しむことであろう>とお思いになったのだが、善従は上人にお目にかかるや、<ああ、ありがたい。
すぐにも仏法は栄えることでしょう>といった。
そしてついにこの言葉通りになったのである。
<善従は不思議な人だ>と蓮如上人も仰せになっていた」と、実如上人は仰せになりました。

(201)

 去る大永三年、蓮如上人の二十五回忌にあたる年の三月はじめごろ、実如上人は夢をご覧になりました。
御堂の上壇、南の方に、蓮如上人がおいでになって、紫色の小袖をお召しになっています。
そして、実如上人に対して、「仏法はみ教えを聞いて喜び語りあうということにる尽きるのである。
だから、十分に語りあわなければならない」と仰せになったのです。
目が覚めてから、実如上人は、「これはまことに夢のお告げともいうべきことである」と仰せになりました。
そういうわけで特にその年は、「み教えを聞いて喜び語りあうことが大切である」とお示しになったのです。
このことについてさらに、「ただ一人いるときも、喜びの心がおこってくるのが仏法である。
一人でいるときでさえ尊く思われるのだから、二人が会って話しあえば、どれほどありがたく感じられることであろうか。
ともかく仏法のことについて寄り集って話しあいなさい」と仰せになりました。

(202)

 今までの心をあらためようという人が、「どんなことをまずあらためたらよいろしいでしょうか」とお尋ねしたところ、「悪いことはすべてあらためなさい。
それも、心の中をはっきりと表に出して、あらためるということでなければならない。
どんなことであれ、人が直すことができたということを聞いて、自分もそのように直るはずだと思い、自身の悪いところを打ち明けなかったなら、直るものではない」と、蓮如上人は仰せになりました。

(203)

「仏法について話しあうとき、ものをいわないのは、信心がないからである。
そういう人は、心の中でうまく考えていわなければならないように思っているのであろうが、それはまるでどこかよそにあるものを探し出そうとしているかのようである。
心の中にうれしいという思いがあれば、それはそのままあらわれるものである。
寒ければ寒い、暑ければ暑いと、心に感じた通りがそのまま口に出るものである。
仏法について話しあう場で、ものをいわないのは、うちに信心がないからである。
また、油断ということも、信心をいただいた上で言うことである。
しばしば念仏の仲間とともに集まり、み教えを聞いて喜び語りあうなら、油断するということはあるはずがないのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

(204)

 蓮如上人は、「信心がたしかに定まったのだから、弥陀のお救いをすでに得たというのは、現在のこの身でさとりを開いたように聞こえるのでよくない。
弥陀を信じておまかせするとき、お救いくださることは明らかであるけれども、必ずお救いにあずかるというのがよいのである」と仰せになりました。
また、「信心をいただいたとき、往生成仏すべき身となる。
これは必ず成仏するという利益であり、表にはあらわれない利益であって、仏のさとりに至ることに定まったということなのである」とも仰せになりました。

(205)

 徳大寺の唯蓮坊が、「摂取不捨」とはどういうことなのか知りたいと思って、雲居寺の阿弥陀仏に祈願しました。
すると、夢の中に阿弥陀仏が現れて、唯蓮坊の衣の袖をしっかりととらえ、逃げようとしても決してお放しにならなかったのだそうです。
この夢によって、摂取というのは、逃げるものをとらえて放さないようなことであると気づいたといいます。
蓮如上人はこのことをよく例に引いてお話しになりました。

(206)

 蓮如上人がご病床にあったとき、ご子息の蓮淳さま、蓮悟さまが上人のもとへおうかがいし、「目に見えない仏のおはたらきにかなうというのは、どのよなことでしょうか」とお尋ねすると、上人は「それは、弥陀を信じておまかせするということである」と仰せになりました。

(207)

 「人に仏法の話しをして、相手の人が喜んだときは、自分はその相手の人よりも、もっと喜んで尊いことだと思うべきである。
仏の智慧をお伝えするからこそ、、このように人が喜ぶのだと受けとめて、仏の智慧のおはたらきをありがたく思いなさい」と、蓮如上人はお示しくださいました。

(208)

 「人前で御文章を読んで聴聞させるのも、仏恩報謝であると思いなさい。
一句一言でも、信心をいただいた上で読み聞かせるのなら、人も信じて受け取るし、また仏恩報謝にもなるのである」と仰せになりました。

(209)

 蓮如上人は、「弥陀の光明のはたらきは、たとえていえば、濡れたものを干すと、表から乾いて、裏まで乾くようなものである。
濡れたものが乾くのは日光の力である。
罪深い凡夫にたしかな信心がおこるのは、弥陀のお働きによるものである。
凡夫の罪はすべて弥陀の光明が消してくださるのである」と仰せになりました。

(210)

 「信心がたしかに定まった人はどんな人であれ、一目その人を見ただけで尊く思えるものである。
だが、これはその人自身が尊いのではない。
弥陀の智慧をいただいているから尊いのである。
だから弥陀の智慧のはたらきのありがたさを思い知らなければならない」と仰せになりました。

(211)

 ご病床にあった蓮如上人が、「わたしは、もはや何も思い残すことはない。
ただ、子供たちの中にも、その他の人々の中にも、信心のないものがいることを悲しく思う。
世間では、思い残すことがあると死出の旅路のさまたげになるなどというが、わたしには今すぐ往生してもさまたげとなるような思いはない。
ただ信心のないものがいることだけを嘆かわしく思うのである」と仰せになりました。

(212)

 蓮如上人は、あるときには訪ねてきた人に酒を飲ませたり、ものを与えたりして、このようなもてなしをありがたいことだと喜ばせ、近づきやすくさせて、仏法の話をお聞かせになりました。
「このようにものを与えることも、信心を得させるためであるから、仏恩報謝であると思っている」と仰せになりました。

(213)

 蓮如上人は、「ご法義を善く心得ていると思っているものは、実は何も心得ていないのである。
反対に、何も心得ていないと思っているものは、よく心得ているのである。
弥陀がお救いくださることを尊いことだとそのまま受け取るのが、よく心得ているということなのである。
物知り顔をして、自分はご法義をよく心得ているなどと思うことが少しもあってはならない」と仰せになりました。
ですから、『口伝鈔』には、「わたしたちの上に届いている弥陀の智慧のはたらきにおまかせする以外、凡夫がどうして往生という利益を得ることができようか」と示されているのです。

(214)

 加賀の国の菅生の願生が、蓮智のお聖教の読み方を聞いて、「お聖教はありがたいのですが、お読みになる方に信心がございませんので、尊くも何ともありません」といいました。
蓮如上人はこのことをお聞きになって、蓮智をお呼び寄せになり、ご自身の前で毎日お聖教を読ませ、ご法義についてもお聞かせになりました。
そして、「蓮智にお聖教を読み習わせ、仏法についても話して聞かせた」ということを願生にお伝えになり、蓮智を郷里に帰されました。
その後は、蓮智がお聖教を読むと願生も、「今こそ本当にありがたい」といって、心から喜ぶようになったということです。

(215)

 蓮如上人は、年少のものに対しては、「ともかくまずお聖教を読みなさい」と仰せになりました。
また、その後は、「どれほどたくさんのお聖教を読んだとしても、繰り返し読まなければ、その甲斐がない」と仰せになりました。
そして、成長して少し物事がわかるようになると、「どれほどお聖教を読み、漢字の音などをよく学んだとしても、書かれている意味がわからなければ、本当に読んだことにはならない」と仰せになりました。
さらに、その後は、「お聖教の文やその解釈をどれほど覚えたとしても、信心がなければ何の意味もない」と仰せになりました。

(216)

 ある人が心に思っていることをそのまま法敬坊に打ち明けて、「蓮如上人のお言葉の通りには心得ておりますが、とかく気がゆるみ、なまけ心が出て、ただただ情けないことです」といいました。
すると法敬坊は「それは上人のお言葉の通りではありません。
何ともふとどきないい方です。
お言葉には、<気をゆるめてはいけない。
なまけてはいけない>と、示されているではありませんか」といわれました。

(217)

 ある人が法敬坊に、「これほど深くあなたは仏法を信じているのに、あなたの母上に信心がないのは、どういうことでしょうか」と、疑問に思っていることを尋ねたところ、法敬坊は、「その疑問はもっともなことですが、朝夕、どれほど御文章を読み聞かせても、少しも心を動かさないのですから、このわたしが教えたくらいのことで、どうして聞いてくれるでしょうか」といわれました。

(218)

 順誓が申されるには、「人々にご法義の話をするのに、蓮如上人がおられないところで話すときは、何か間違ったことをいいはしないだろうかと気になって、脇の下から冷汗の出る思いがする。
反対に、上人がお聞きになっているところで話すときは、間違ったことをいっても、直ぐに直していただけると思うので、安心して話すことができる」ということでした。

(219)

 蓮如上人は、「疑問に思うということと、少しも知らないということとは、別のことである。
まったく知らないことを疑問に思うというのは、間違っている。
物事をだいたい心得ていて、その上で、あれは何であろうか、これはどうであろうかというのが、疑問に思うということである。
ところが、人々はわけを少しも知らないで尋ねることを、疑問に思うといってごまかしている」と仰せになりました。

(220)

 蓮如上人は、「山科の本願寺や大坂などの御坊のことは、親鸞聖人がご在世の時と同じように考えている。
つまりこのわたしは、しばらくの間、聖人の留守をお預かりしているだけなのである。
そういうことではあるが、聖人のご恩をかたときも忘れたことはない」と、お斎の折のご法話で仰せになりました。
そして、「お斎をいただいている間も、少しもご恩を忘れることはない」と仰せになりました。

(221)

 善如上人と綽如上人の時代のことについて、実如上人が次のように仰せになりました。
 「このお二人の時代は、外見をおごそかにすることを大事にされていた。
そのことは、黄袈裟、黄衣をお召しになったお姿で描かれているお二人の御影像に今もあらわれている。
そこで、蓮如上人の時代、浄土真宗にそぐわない本尊など多くのものを、仏具・仏像を洗う湯を沸かすたび、上人は焼くようにお命じになった。

このお二人の御影像も焼かせようとして取り出されたところ、どのように思われたのであろうか、包んでいる紙に<善い・悪い>とお書きになって、御影像を残しておかれたのであった。
このことを今考えてみると、<歴代の宗主の中でさえ、このように間違うことがある。
まして、わたしたちのよなものは間違うことがありがちだから、仏法のことは大切であると心得て、十分気をつけなさい>というお諭しであったのである。

このときの上人のお心を、わたしは今そのように受けとめている。
また、<善い・悪い>とお書きになったのは、<悪い>とだけ書けば、本願寺の先代のことであるから、恐れ多いと思われて、どちらにも取れるようにされたのである」と。
そしてまた、実如上人は、「蓮如上人の時代、親しくお仕えしていた人々の多くがみ教えを間違って受けとめることがあった。

わたしたちは、大切な仏法をますます深く心にとどめ、人に何度も何度も尋ねて、み教えを正しく心得なければならないのである」と仰せになりました。

(222)

 「仏法に深く帰依した人に、わずかばかりの間違いがあるのを見つけたときは、あの方でさえこのように間違いを犯すことがあると思って、わが身を深くつつしまなければならない。
ところがそれを、あの方でさえ間違いがあるのだ、まして、わたしたちのようなものが間違えないはずがないと思うのは、大変嘆かわしいことである」とのことです。

(223)

 「<仏恩をたしなむ>という仰せがあるが、これは世間で普通にいう、ものをたしなむなどというようなことではない。
信心をいただいた上は、仏恩を尊く、ありがたく思って喜ぶのであるが、その喜びがふと途切れて、念仏がなおざりになることがある。

そういうときに、このような広大なご恩を忘れるのは嘆かわしいことだと恥じ入って、仏の智慧のはたらきを思いおこし、ありがたいことだ、尊いことだと思うと、仏のうながしによってまた念仏するのである。
<仏恩をたしなむ>というのはこういうことなのである」と仰せになりました。

(224)

 「仏法について聞き足りたということがなければ、それが仏法の不思議を信じることである」というお言葉があります。
このことについて、実如上人は、「たとえば、世間でも、自分の好きなことは知っても知っても、もっとよく知りたいと思うから、人に問い尋ねる。
好きなことは何度聞いても、もっとよく聞いたいと思うものである。
これと同じように、仏法のことも、何度聞いても聴き足りることはない。
知っても知っても、もっとうよく知りたいと思うものである。
だから、ご法義のことは、何度も何度も人に問い尋ねなければならないのである」と仰せになりました。

(225)

 仏のおかげで与えられたものを世間のことに使うのは、尊いお恵みを無駄にすることであると恐れ多く思わなければならない。
けれども、仏法のためであれば、どれほど使っても、これで十分だということはないのである。
そしてまた、仏法のために使うのは、仏恩報謝にもなるのである。

(226)

「人が何の苦労もしないで徳を得る、その最上のことは、弥陀を信じておまかせするだけで仏になるということである。
これ以上のことはない」と仰せになりました。

(227)

 「人はだれでもよいことをいったり、行ったりすると、仏法のことであれ世間のことであれ、自分自身がすでに善人になったと思いこみ、その思いから、仏のご恩を忘れ、自分の心を中心にしてしまう。
そのために、仏のご加護から見放されてしまい、世間のことにも仏法のことにも、悪い心が必ず出てくるようになるのである。
これは本当に大変なことである」と仰せになりました。

(228)

 堺の御坊で、ご子息の蓮悟さまが、蓮如上人に御文章を書いていただきたいとお願いしました。
そのとき上人は、「こんなに年をとったのに、難儀なことを願い出る。
困ったことをいうものだ」と、ひとたびは仰せになりましたが、その後で「仏法を信じてくれさえすれば、どれだけ書いてもよい」と仰せになりました。

(229)

 同じく堺の御坊で、蓮如上人は、深夜,蝋燭をともさせて、お名号をお書きになりました。
そのとき、「年老いたので、手も震え、目もかすんできたが、お名号を求めているご門徒が、明日、越中に帰るというので、こうして書いているのである。
つらいけれども書くのである」と仰せになりました。
このように上人はご門徒のために、わが身を顧みず大変ご苦労されたのです。
「人々に苦労をさせずに、ただ信心を得させたいと思っている」と、上人は仰せになりました。

(230)

 「珍しい食べ物を用意し、料理してもてなしても、客がそれを食べなければ無意味である。
念仏の仲間が集まって,み教えについて語りあっても、信心を得る人がいなければ、せっかくのごちそうを食べないのと同じことである」と仰せになりました。

(231)

 「物事に飽き足りるということはあるけれども、わたしたち凡夫が仏になるということと、弥陀のご恩を喜ぶことには、もはや聞き足りた、もう十分に喜んだということはない。
焼いてもなくならない貴重な宝は、南無阿弥陀仏の名号である。
だから,この宝をわたしたちにお与えくださる弥陀の広大なお慈悲はとりわけすぐれているのであり、宝である名号をいただいた信心の人を見ただけでも尊く思われるのである。
本当にきわまりのないお慈悲である」と仰せになりました。

(232)

 「たしかに信心が定まった人は、仏法のことについては、わが身を軽くして報謝に努めなければならない。
そして、仏法のご恩を、重く大切に敬まわなければならないのである」と仰せになりました

(233)

 蓮如上人は、「宿善がすばらしいというのはよくない。
宿善とは阿弥陀仏のお育てのことであるから、浄土真宗では宿善がありがたいというのがよいのである」と仰せになりました。

(234)

 他宗では、仏法にあうことを宿縁によるという。
浄土真宗では、信心を得ることを宿善が開けたという。
信心を得ることが何より大切なのである。
阿弥陀仏の教えは、あらゆる人々をもらさず救うので、弘教すなわち広大な教えともいうのである。

(235)

 「み教えについて語るときには、浄土真宗のかなめである信心、ただこのこと一つを説き聞かせることが大切である」と仰せになりました。

(236)

 蓮如上人は、「仏法者には、仏法の力によってなるのである。
仏法のすぐれた力によらなければ、仏法者になることはできない。
そうであるから、仏法を学者や物知りが人々に述べ伝えて盛んにすることはないのである。
たとえ文字一つ知らなくても、信心を得た人には仏の智慧が加わっているから、仏の力によって、その人の話しを聞く人々が信心を得るのである。
だから、人前で聖教を読み聞かせるものであっても、われこそはと思いあがった人が、仏法を伝えたためしはないないのである。
何一つ知らなくても、たしかに信心を得た人は、仏のお力で話すのだから、人々が信心を得るのである」と仰せになりました。

(237)

 「弥陀を信じておまかせすれば、南無阿弥陀仏の主になるのである。
南無阿弥陀仏の主になるというのは、信心を得るということである。
また,浄土真宗において、真実の宝というのは南無阿弥陀仏であり、これが信心である」と仰せになりました。

(238)

 「浄土真宗の中に身を置きながら、み教えを謗り,悪くいう人がいる。
考えてみると、他宗からの避難であれば仕方がないが、同じ浄土真宗の中に、このような人がいるのである。
それであるのに、わたしたちは尊いご縁があって、このみ教えを信じる身となったのだから、本当にありがたいことだと喜ばなければならない」と仰せになりました。

(239)

 蓮如上人は、どのようなる罪を犯したものであっても、あわれみ不憫にお思いになりました。
重罪人だからといって、その人を死刑にしたりすることがあると、とりわけ悲しんで、「命さえあれば、心をあらためることもあるだろうに」と仰せになるのでした。
ご自身で破門にされたものであっても、心さえあらためれば、すぐにお許しになったのです。

(240)

 安芸の蓮崇は、加賀の国を転覆させ、いろいろと間違ったことをしたので、破門となりました。
その後、蓮如上人がご病気になられたとき、蓮崇は上人にお詫びを申しあげようと山科の本願寺へ参上したのですが、上人に取り次いでくれる人はいませんでした。
ちょうどそのころ、蓮如上人がふと、「蓮崇を許してやろうと思うよ」と仰せになりました。
上人のご子息がたをはじめ人々は「一度、仏法に害を与えた人物でありますから、お許しになるのはどうかと思います」と申しあげたところ、上人は、「それがいけない。
何と嘆かわしいことをいうのだ。
心さえあらためるなら、どんなものでももらさず救うというのが仏の本願ではないか」と仰せになって,蓮崇をお許しになりました。
蓮崇が上人のもとへ参り、お目にかかったとき、感動の涙で畳を濡らしたということです。
その後、蓮如上人がお亡くなり、そのご中陰の間に、蓮崇も山科の本願寺で亡くなりました。

(241)

 奥州に、浄土真宗のみ教えを乱すようなことを説いている人がいるということをお聞きになって、蓮如上人はその人、浄祐を奥州から呼び寄せ、お会いになりました。
上人はひどくお腹立ちで、「さてもさても、ご開山聖人のみ教えを乱すとは。
何と嘆かわしいことか。
何と腹立たしいことか」とお叱りになり、歯がみをしながら、「切りきざんでも足りないくらいだ」と仰せになりました。
ご法義を乱すもののことを「とりわけ嘆かわしい」と仰せになったのです。

(242)

 「思案のきわまりというべきは、五劫の間思いをめぐらしておたてになった阿弥陀如来の本願であり、これを超えるものはない。
弥陀如来のこのご思案のおもむきを心に受け取れば、どんな人でも必ず仏になるのである。
心に受け取るといっても他でもない。
「われにまかせよ、必ず救う」という機法一体の名号のいわれを疑いなく信じることである」と仰せになりました。

(243)

 蓮如上人は、「わたしが生涯の間行ってきたことは、すべて仏法のことであり、いろいろな方法を用い、手だてを尽くして、人々に信心を得させるためにしてきたことである」と仰せになりました。

(244)

 同じくご病床にあった蓮如上人が、「今、わたしがいうことは、仏のまことの言葉である。
しっかりと聞いてよく心得なさい」と仰せになりました。
また、ご自身がお詠みになった和歌についても、「三十一文字の歌をつくったからといって、風雅の思いを詠んだのではない。
すべてみ教えにほかならないのである」と仰せになりました。

(245)

 「<三人集まると、よい知恵が浮ぶ>という言葉があるように、どんなことも集まって話しあえば、はっとするようなよい考えが出てくるものだ」と、蓮如上人が実如上人に仰せになりました。
これもまた仏法の上では、きわめて大切なお諭しです。

(246)

 蓮如上人が法敬坊順誓に、「法敬とわたしとは兄弟である」と仰せになりました。
法敬坊が、「これはもったいない、恐れ多いことでございます」と申しあげると、上人は、「信心を得たなら、先に浄土に生まれるものは兄、後に生れるものは弟である。
だから、法敬とは兄弟である」と仰せになりました。
これは、『往生論註』の「仏恩を等しくいただくのであるから、同じ信心を得る。
その上は世界中のだれもがみな兄弟である」というお示しのおこころです。

(247)

 蓮如上人は、山科本願寺南殿の山水の庭園に面した縁側にお座りになって、「あらかじめ思っていたことと、実際とは違うものであるが、その中でも大きく違うのは、極楽へ往生したときのことであろう。
この世で極楽のありさまを想い浮べて、ありがたいことだ、尊いことだと思うのは、大したことではない。
実際に極楽へ往生してからの喜びは、とても言葉ではいい表すことができないであろう」と仰せになりました。

(248)

 「人は、嘘をつかないようにしようと努めることを大変よいことだと思っているが、心に嘘いつわりのないようにしょうと努める人はそれほど多くはない。
また、よいことは、なかなかできるものではないとしても、世間でいう善、仏法で説く善、ともに心がけて行いたいものである」と仰せになりました。

(249)

 蓮如上人は、「『安心決定鈔』を四十年余りの間拝読してきたが、読み飽きるということのないお聖教である」と仰せになりました。
また、「黄金を掘り出すようなお聖教である」とも仰せになりました。

(250)

 大坂の御坊で、蓮如上人は集まっていた人々に対し、「先日、わたしが話したことは『安心決定鈔』のほんの一部である。
浄土真宗のみ教えでは、この『安心決定鈔』に説かれていることが、きわめて大切なのである」と仰せになりました。

(251)

 法敬坊が、「ご法義を尊んでいる人よりも、ご法義を尊いと喜ぶ人の方が尊く思われます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「おもしろいことをいうものだ。
ご法義を尊んでいるすがたをあらわにし、ありがたそうに振舞う人は尊くもない。
ただありがたいと尊んで素直に喜ぶ人こそ、本当に尊いのである。
おもしろいことをいうものだ。
法敬は道理にかなっていることをいった」と仰せになりました。

(252)

 これは蓮悟さまの夢の記録です。
文亀三年一月十五日の夜の夢である。
蓮如上人がわたしにいろいろと質問をなさった後で、「毎日、むなしく暮らしていることを情けなく思う。
勉学の意味も兼ねて、せめて一巻の経であっても、一日に一度はみなが集まり、読むようにしなさい」と仰せになった。
わたしたちが毎日をあまりにむなしく過ごしていることを悲しく思われて、上人はこのように仰せになったのである。

(253)

 これも蓮悟さまの夢の記録です。
文亀三年十二月二十八日の夜の夢である。
蓮如上人が法衣に袈裟というお姿で襖をあけてお出ましになったので、ご法話をされるのだ、聴聞しようと思っていたところ、衝立に書かれている御文章のお言葉をわたしが読んでいるのをご覧になって、「それは何か」とお尋ねになった。
そこで、「御文章でございます」と申しあげると、「それこそが大切である。
心してよく聞きなさい」と仰せになったのである。

(254)

 これも蓮悟さまの夢の記録です。
永正元年十二月二十九日の夜の夢である。
蓮如上人が、「家を立派に建てた上は、信心をたしかにいただいて念仏申しなさい」と、きびしく仰せになったのである。

(255)

 これも蓮悟さまの夢の記録です。

 大永三年一月一日の夜の夢である。
山科本願寺の南殿で、蓮如上人がご法義についていろいろとお話しになった後で、「地方にはまだ自力の心のものがいるが、その心を捨てるようきびしく教え導きなさい」と仰せになったのである。

(256)

これも蓮悟さまの夢の記録です。

 大永六年一月五日の夜の夢である。
蓮如上人が、「このたびの浄土往生のことはもっとも大切である。
み教えにあうことのできる今こそがよい機会である。
このときを逃すと、大変である」と仰せになった。
そこで、「承知しました」とお答えしたところ、上人は、「ただ承知しましたといっているだけでは成しとげられない。
このたびの浄土往生は本当に大切なのである」と仰せになったのである。

 次の夜の夢である。
兄、蓮誓が、「わたしは吉崎で蓮如上人より浄土真宗のかなめを習い受けた。
浄土真宗で用いない書物などをひろく読んで、み教えを間違って受けとめることがあるが、幸いに、ここにみ教えのかなめを抜き出したお聖教がある。
これが浄土真宗の大切な書であると、吉崎で上人から習い受けたのである」と仰せになったのである。

 夢の数々を書き記したことについてのわたしの思いはこうである。
蓮如上人がこの世を去られたので、今はその一言の仰せも大切であると思われる。
このように夢の中に現れて仰せいになるお言葉も、ご存命のときと同じ尊い仰せであり、真実の仰せであると受けとめているので、これを書き記したのである。
ここに記したことは本当に夢のお告げともいうべきものである。
夢というのは概して妄想であるが、仏や菩薩の化身であるお方は、夢に姿をあらわして教え導くということがある。
だからなおさらのこと、このよな夢の中での尊いお言葉を聞き記しておくのである

(257)

 蓮如上人は、「仏恩が尊いなどというのは、聞いた感じが悪く、粗略な言い方である。
仏恩をありがたく思うといえば、聞いた感じがとてもよいのである」と仰せになりました。
同じように、「御文章が」といのも粗略ないい方です。
御文章を聴聞して、「御文章をありがたく承りました」というのがよいのです。
「仏法に関することは、どれほど尊び敬ってもよいのである」と仰せになりました。

(258)

 蓮如上人は、「仏法について語りあうとき、念仏の仲間を<方々>というのは無作法である。
<御方々>というのがよい」と仰せになりました。

(259)

 蓮如上人は、「家をつくるにしても、頭さえ雨に濡れなければ、後はどのようにつくってもよい」と仰せになりました。
何ごとにつけても、度をこえたことをおきらいになり、「衣服などに至るまでも、よいものを着たいと思うのはあさましいことである。
目に見えない仏のおはたらきをありがたく思い、仏法のことだけを心がけるようにしなさい」と仰せになりました。

(260)

 蓮如上人は、「どんな人であっても、浄土真宗のご法義を喜ぶ家で働くことになったら、昨日までは他宗の信徒であっても、今日からは仏法のお仕事をさせていただくのだと心得なければならない。
商売などの仕事もすべて、仏法のお仕事と心得なければならないのである」と仰せになりました。

(261)

 蓮如上人は、「雨の降る日や暑さのきびしいときは、おつとめを長々としないで、はやく終えるようにし、参詣の人々を帰らせるのがよい」と仰せになりました。
これも上人のお慈悲であり、人々をいたわってくださったのです。
そのお心は、仏の大慈大悲の御あわれみそのものでした。
上人はいつも、「わたしはその人その人に応じて、み教えを勧めているのである」と仰せになっていました。
ご門徒が上人のお心の通りにならないことは、大変嘆かわしいといったくらいでは、まだ言葉が足りないほどのことなのです。

(262)

 将軍足利義尚より、加賀の国で一揆をおこした人々を門徒から追放せよという命令があったので、蓮如上人は、加賀に居住していたご子息たちを山科本願寺に呼び寄せました。
そのとき上人は、「加賀の人々を門徒から追放せよと命令されたことは、わが身をきられるようりも悲しく思う。
一揆に関わりのない尼や入道たちのことまで思うと、本当に困りはててしまう」と仰せになりました。
ご門徒を破門なさるということは、本願寺の宗主である上人にとって、とりわけ悲しいことであったのです。

(263)

 蓮如上人は、「ご門徒たちが納めてくれた初物を、すぐに他宗へ上げてしまうのはよくない。
一度でも二度でもこちらでいただいて、それから他へもあげるのがよい」と仰せになりました。
このようなお考えは、他の人の思いもよらないことです。
ご門徒たちが納めてくださったものは、すべて仏法のおかげであり、仏のご恩であるから、おろそかにに思うことがあってはなりません。
本当にはっとさせられる仰せです。

(264)

 法敬坊が大坂の御坊へおうかがいしたとき、蓮如上人は法敬坊に対して、「わたしが往生しても、あなたはその後十年は生きるであろう」と仰せになりました。
法敬坊は不審に思って、いろいろと申しあげたのですが、上人は重ねて、「十年は生きるであろう」と仰せになりました。
上人がご往生されて一年経った時、なお健在であった法敬坊に、ある人が、「蓮如上人がおおせになっていた通りになりましたね。
というのも、上人がご往生の後、あなたが一年もご存命であったのは、上人より命を与えていただいたからなのです」といいました。
すると法敬坊は、「本当にそのようでございます」といって、手をあわせ、「ありがたいことだ」と感謝しました。
このようなわけで、法敬坊は蓮如上人が仰せになった通り、十年命をながらえました。
本当に仏のご加護を賜った不思議な人です。

(265)

 蓮如上人は、「どんなことであれ、不必要なことをするのは、仏のご加護を軽視する振舞いである」と、何かにつけていつも仰せになったということです。

(266)

 蓮如上人は、「食事をいただくときにも、阿弥陀如来・親鸞聖人のご恩によって恵まれたものであることを忘れたことはない」と仰せになりました。
また、「ただ一口食べても、そのことが思いおこされてくるのである」とも仰せになりました。

(267)

 蓮如上人はお食事のお膳をご覧になっても、「普通はいただくことのできない、仏より賜ったご飯を口にするのだとありがたく思う」と仰せになしました。
それで、食べ物をすぐに口にされることもなく、「ただ仏のご恩の尊いことばかりを思う」とも仰せになりました。

(268)

 これは蓮悟さまの夢の記録です。
享禄二年十二月十八日の夜の夢である。
蓮如上人がわたしに御文章を書いてくださった。
その御文章のお言葉に梅干しのたとえがあり、「梅干しのことをいえば、聞いている人はみな口の中がすっぱくなる。
人によって異なることのない一味の安心はこれと同じである」と記されていた。
これは、『往生論註』の「だれもが同じく念仏して往生するのであり、別の道はない」という文のこころをお示しになったように思われる。

(269)

「人々は仏法を好まないから、仏法に親しむように心がけないのです」と、空善が申しあげたところ、蓮如上人は、「好まないというのは、それはきらっていることではないのか」と仰せになりました。

(270)

 蓮如上人は、「仏法を信じない人は、仏法を病気のようにきらうものである。
ご法話を聞いていて、ああ気づまりだ、はやく終わればよいのにと思うのは、仏法を病気のようにきらっているのではないか」と仰せになりました。

(271)

 大永五年一月二十四日、ご病床にあった実如上人が、「蓮如上人がはやくわたしのところに来いと左手で手招きをしておられる。
ああ、ありがたい」と、繰り返し仰せになって、お念仏を申されるので、側にいた人々は病のためにお心が乱れて、このようなことをも仰せになるのであろうと心配しました。
ところが、そうではなくて、「うとうとと眠ったときの夢で見たのだ」と、後で仰せになったので、人々はみな安心しました。
これもまた尊い不思議なことです。

(272)

 大永五年一月二十五日実如上人が弟の蓮淳さま、蓮悟さまに対して、蓮如上人が本願寺の住職の地位を譲られてからのことをいろいろお話しになりました。
そして、ご自身の安心のことをお述べになり、「弥陀を信じておまかせし、往生はたしかに定まったと心得ている。
それは、蓮如上人のご教化のおかげであり、今日まで自分こそがと思う心をもたなかったことがうれしい」と仰せになりました。
この仰せいは本当にありがたく、また、深く驚かされるものです。
わたしも人々も、このように心得てこそ、他力の信心がたしかに定まったということでありましょう。
これは間違いなく本当に大切なことなのです。

(273)

 「『嘆徳文』に<親鸞聖人>とあるのをそのまま朗読すると、実名を口にすることになって恐れ多いから、<祖師聖人>と読むのである。
また、<開山聖人>と読むこともあるが、これも同じく実名でお呼びするのが恐れ多いからである」と仰せになりました。

(274)

 親鸞聖人のことをただ「聖人」とじかにお呼びすると、粗略な感じがする。
「この聖人」と指し示していうのも、やはり粗略であろう。
「開山」というのは略するときだけに用いてもよいであろう。
「開山聖人」とお呼びするのがよいのである。

(275)

 『嘆徳文』に「以て弘誓に託す」とあるのを、その「以て」を抜いては読まないのである。

(276)

 蓮如上人が堺の御坊におられたとき、ご子息の蓮淳さまが訪ねて来られました。
上人はそのとき御堂で、机の上に御文書を置いて、一人二人、五人十人と、参詣してきた人々に対して、御文章を読み聞かせておられました。
その夜、いろいろとお話しになったときに、上人は、「近ごろ、おもしろいことを思いついた。
一人でもお参りの人がいるならば、いつも御文章を読んで聞かせることにしよう。
そうすれば、仏法に縁のある人は信心を得るであろう。
近ごろ、こんなおもしろいことを考え出したのだ」と、繰り返し仰せになりました。
蓮淳さまはこのお言葉を聞いて、「御文章が大切であることがますますわかった」と仰せになりました。

(277)

 ある人が、「この世のことに関心を持つのと同じくらい、仏法のことに心を寄せたいものです」といったところ、蓮如上人は、「仏法を世間のことと対等に並べていうのは、粗雑である。
ただ仏法のことだけを深く喜びなさい」と仰せになりました。
また、ある人が、「仏法は、一日一日今日を限りと思って心がけるものです。
一生の間と思うから、わずらわしく思うのです」というと、別の人が、「わずらわしいと思うのは、仏法を十分心得ていないからです。
人の命がどれほど長くても、仏法は飽きることなく喜ぶべきものです」といいました。

(278)

 「僧侶は他の人々までも教え導くことができるのに、自分自身を教え導くことができないでいるのは、情けないことである」とお仰せになりました。

(279)

 赤尾の道宗が、蓮如上人にご文章を書いていただきたいとお願いしたところ、上人は、「御文章は落としてしまうこともあるから、何よりまず信心を得なさい。
信心をいただきさえすれば、それは落とすことがないのである」と仰せになりました。
その上で、上人は次の年に御文書をお書きになって、道宗にお与えになったのでした。

(280)

 法敬坊が、「仏法の話をするとき、み教えを心から求めている人を前にして語ると、力が入って話しやすい」といわれました。

(281)

 「信心もない人が大切なお聖教を所有しているのは、幼い子供が剣を持っているようなものだと思う。
どういうことかというと、剣は役に立つものであるけれども、幼い子供が持てば、手を切ってけがをする。
十分、心得のある人が持てば、本当に役立つものとなるのである」と仰せになりました。

(282)

 蓮如上人は、「今このときでも、わたしが死ねと命じたならば死ぬものはいるだろう。
だが、信心を得よといっても、信心を得るものはいないだろう」と仰せになりました。

(283)

 大坂の御坊で、蓮如上人は参詣の人々に対し、「信心一つで、凡夫の往生が定まるというのは、何よりも深遠な、秘事秘伝のみ教えではないか」と仰せになりました。

(284)

 蓮如上人が御堂を建立されたとき、法敬坊が、「何もかも不思議なほど立派で、ながめなども見事でございます」と申しあげたところ、上人は、「わたしはもっと不思議なことを知っている。
凡夫が仏になるという、何より不思議なことを知っているのである」と仰せになりました。

(285)

 蓮如上人が、善従に掛軸にするためのご法語を書いてお与えになりました。
その後、上人が善従に、「以前、書き与えたものをどのようにしているか」とお尋ねになったので、善従は「表装をいたしまして、箱に入れ大切にしまってあります」とお答えしました。
すると上人は、「それはわけのわからないことをしたものだ。
いつも掛けておいて、その言葉通りの心持になれよ、ということであったのに」と仰せになりました。

(286)

蓮如上人は、「わたしの側近くにいて仕え、いつも仏法を聴聞しているものは、お役目という思いを忘れて法話を聞いたなら、浄土に往生して仏になるだろう」と仰せになりました。
これは本当にありがたい仰せです。

(287)

 蓮如上人が僧侶たちに対して、「僧侶というものは大罪人である」と仰せになりました。
一同が戸惑っておりますと、上人は続けて「罪が重いからこそ、阿弥陀仏はお救いくださるのである」と仰せになりました。

(288)

 毎日御文章の尊いお言葉を聴聞させてくださることは、そのつど宝をお与えになっているということなのです。

(289)

 親鸞聖人がご在世のころ、高田の顕智が京都におられる聖人のもとを訪ね、「このたびはもうお目にかかれないだろうと思っておりましたが、不思議にもこうしてお目にかかることができました」と申しあげました。
聖人が「どういうわけで、そういうのか」とお尋ねになると、顕智は、「船の旅で暴風にあい、難儀しました」とお答えしました。

すると聖人は、「それならば、船には乗らなければよいのに」と仰せになりました。
その後、顕智はこれも聖人の仰せになったことの一つであると受けとめて、生涯の間船には乗らなかったのです。
また、きのこの毒にあたって、お目にかかるのが遅れたときも、聖人が同じように仰せになったので、顕智は生涯、きのこを食べることがなかったといいます。
蓮如上人はこの逸話について、「顕智がこのように親鸞聖人の仰せを信じ、決して背かないようにしようと思ったことは、本当にありがたい、すぐれた心がけである」と仰せになりました。

(290)

 「体が暖かくなると眠たくなる。
何とも情けないことである。
だから、そのことをよく心得て、体をすずしくたもち、眠気をさますようにしなければならない。
体を思うがままにしていると、仏法のことも世間のことも、ともに怠惰になり、ぞんざいで注意を欠くようになる。
これは心得ておくべき非常に大切なことである」と仰せになりました。

(291)

 「信心を得たなら、念仏の仲間に荒々しくものをいうこともなくなり、心もおだやかになるはずである。
阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心もやわらげるとあるからである。
逆に、信心がなければ、自分中心の考え方になって、言葉も荒くなり、争いも必ずおこってくるものである。
実にあさましいことである。
よく心得ておかねばならない」と仰せになりました。

(292)

 蓮如上人が北国のあるご門徒のことについて、「どうして長い間京都にやって来ないのか」とお尋ねになりました。
お側のものが、「あるお方のきびしいお叱りがあったからです」とお答え申しあげたところ、上人はたいそうご機嫌が悪くなり、「ご開山聖人のご門徒をそのように叱るものがあってはならない。
わたしはだれ一人としておろそかには思わないのに。
 <どのようなものが何をいおうとも、はやく京都に来るように>と伝えなさい」と仰せになりました。

(293)

 蓮如上人は、「ご門徒の方々を悪くいうことは、決してあってはならない。
ご開山聖人は、御同行・御同朋とお呼びになって心から大切にされたのに、その方々をおろそかに思うのは間違ったことである」と仰せになりました。

(294)

 蓮如上人は、「ご開山聖人のもっとも大切なお客人というのは、ご門徒の方々のことである」と仰せになりました。

(295)

 ご門徒の方々が京都にやって来ると、蓮如上人は、寒いときには、酒などをよく温めさせて、「道中の寒さを忘れられるように」と仰せになり、また暑いときには、「酒などを冷やせ」と仰せになりました。
このように上人自ら言葉を添えて指示されたのです。
また、「ご門徒が京都までやって来られたのに、取り次ぎがおそいのはけしからんことだ」と仰せになり、「ご門徒をいつまでも待たせて、会うのがおそくなるのはよくない」とも仰せになりました。

(296)

 「何ごとにおいても、善いことを思いつくのは仏のおかげであり、悪いことでも、それを捨てることができたのは仏のおかげである。
悪いことを捨てるのも、善いことを取るのも、すべてみな仏のおかげである」と仰せになりました。

(297)

 蓮如上人は、ご門徒からの贈物を衣の下で手をあわせて拝まれるのでした。
また、すべてを仏のお恵みと受けとめておられたので、ご自身の着物までも、足に触れるようなことがあると、うやうやしくおしいただかれるのでした。
「ご門徒からの贈物は、とりもなおあさず親鸞聖人から恵まれたものであると思っている」と仰せになりました。

(298)

「仏法においては、愛するものと別れる悲しみにも、求めても得られない苦しみにも、すべてどのようなことにつけても、このたび必ず浄土に往生させていただくことを思うと、喜びが多くなるものである。
それは仏のご恩である」と仰せになりました。

(299)

「仏法に深く帰依した人に親しみ近づいて、損になることは一つもない。
その人がどれほどおかしいことをし、ばかげたことをいっても、心には必ず仏法があると思うので、その人に親しんでいる自分に多くの徳が得られるのである」と仰せになりました。

(300)

蓮如上人が仏の化身であるということの証拠は数多くあります。
そのことは前にも記しておきました。
上人の詠まれた歌に、

かたみには六字の御名をのこしおく
なからんあとのかたみともなれ

わたしの亡き後にわたしを思い出す形見として、南無阿弥陀仏の六字の名号を残しておく。

というのがあります。
この歌からも、上人が弥陀の化身であるということが明らかに知られるのです。

(301)

 蓮如上人はお子さまたちにしばしばご自分の足をお見せになりました。
その足には、草鞋の緒のくいこんだ痕がはっきりと残っているのでした。
そして、「このように、京都と地方の間を草鞋の緒がくいこむほど自分の足で行き来して仏法を説きひろめたのである」と仰せになりました。

(302)

蓮如上人は、「悪い人のまねをするより、信心がたしかに定まった人のまねをしなさい」と仰せになリました。

(303)

 蓮如上人は病をおして、大坂の御坊より京都山科の本願寺へ出向かれました。
その途中、明応八年二月十八日、三番の浄賢の道場で出迎えに来られていた実如上人に対して、蓮如上人は、「浄土真宗のかなめを御文章に詳しく書きとどめておいたので、今ではみ教えを乱すものもいないであろう。
このことを十分心得て、ご門徒たちへも御文章の通りに説き聞かせなさい」とご遺言なさったということです。
こういうわけですから、実如上人のご信心も御文章の通りであり、同じように諸国のご門徒も御文章の通りに信心を得てほしいというお心の証として、実如上人はご門徒にお与えになる御文章の末尾に花押を添えられたのでした。

(304)

 「存覚上人は大勢至菩薩の化身といわれている。
ところが、その上人がお書きになった『六要鈔』には、三心の字訓やその他の箇所に、<知識の及ばないところがある>とあり、また、<親鸞聖人の博識を仰ぐべきである>とある。
大勢至菩薩の化身であるけれども、親鸞聖人の著作について、このようにお書きになっているのである。
聖人のお心は本当にはかりがたいということを示されたものであり、自力のはからいを捨てて、他力を仰ぐという聖人の本意にもかなっているのである。
このようなことを存覚上人のすぐれたところなのである』と仰せになりました。

(305)

 「存覚上人が『六要鈔』をお書きになったのは、ご自身の学識を示すためではない。
親鸞聖人のお言葉をほめたたえるため、崇め尊ぶためである」と仰せになりました。

(306)

存覚上人は次のような辞世の歌をお詠みになりました。

いまははや一夜の夢となりにけり
往来あまたのかりのやどやど

この迷いの世界を仮の宿として、数えきれないくらい生と死を繰り返してきた。
だが、いまではそれもただ一夜の夢となってしまった。

この歌について、蓮如上人は、「存覚上人はやはり釈尊の化身なのである。
この世界に何度も何度も生れ変わって、人々をお救いになったというお心と同じである」と仰せになり、また、「わたし自身に引き寄せてうかがうと、この迷いの世界に数えきれないくらい生と死を繰り返してきた身が、臨終のときを迎えた今、浄土に往生して仏のさとりを開くことになるであろう、というお心である」と仰せになりました。

(307)

 蓮如上人は、「万物を生み出す力に、陽の気と陰の気とがある。
陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲くのである。
これと同じように、宿善が開けることについても、おそいはやいがある。
だから、すでに往生したもの、今往生するもの、これから往生するものという違いがある。
弥陀の光明に照らされて、宿善がはやくひらける人もいれば、おそく開ける人もいる。
いずれにせよ、信心を得たものも、得ていないものも、ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せになりました。
そして、すでに往生した、今往生する、これから往生するという違いがあることについて、上人は、「昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。
また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる」と仰せになりました。

(308)

 蓮如上人が廊下をお通りになっていたとき、紙切れが落ちているのをご覧になって、「阿弥陀仏より恵まれたものを粗末にするのか」と仰せになり、その紙切れを拾って、両手でおしいただかれたのでした。
「蓮如上人は、紙切れのようなものまですべて、仏より恵まれたものと考えておられたので、何一つとして粗末にされることはなかった」と、実如上人は仰せになりました。

(309)

 ご往生のときが近くなってきたころ、蓮如上人は、「わたしがこの病の床でいうことは、すべて仏のまことの言葉である。
気をつけてしっかりと聞きなさい」と仰せになりました。

(310)

 ご病床にあった蓮如上人は、慶聞坊を呼び寄せて、「わたしには不思議に思われることがある。
病のためにぼんやりしているが、気を取り直して、あなたに話そう」と仰せになりました。

(311)

 蓮如上人は、「世間のことについても、仏法のことについても、わが身を軽くして努めるのがよい」と仰せになりました。
黙りこんでいるものをおきらいになり、「仏法について語りあう場で、ものをいわないのはよくない」と仰せになり、また小声でものをいうのも「よくない」と仰せになりました。

(312)

 蓮如上人は「仏法は心がけが肝心。
世間も心がけが肝心」と、対句にして仰せになりました。
また、「み教えは言うほどに値うちが出る。
庭の松は結うほどに値うちが出る」と、これも対句にして仰せになりました。

(313)

 蓮如上人がご存命のころ、蓮悟さまが堺で模様入りの麻布を買い求めたところ、上人は、「そのようなものはわたしのところにもあるのに、無駄な買物をしたものだ」と仰せになりました。
蓮悟さまが、「これはわたしのお金で買い求めたものです」とお答え申しあげると、上人は「そのお金は自分のものか。
何もかも仏のものである。
阿弥陀如来・親鸞聖人のお恵みでないものは、何一つとしてないのである」と仰せになりました。

(314)

 蓮如上人が蓮悟さまに贈物をしたところ、蓮悟さまは、「わたしにはもったいないことです」といって、お受け取りになりませんでした。
すると上人は、「与えられたものは素直に受け取りなさい。
そして、信心もしっかりといただくようにしなさい。
信心がないから仏のお心にかなわないといって、贈物を受け取らないようだけれども、それはつまらないことである。
わたしが与えると思うのか。
そうではない。
すべてみな仏のお恵みである。
仏のお恵みでないものがあるだろうか」と仰せになりました。