七祖-補註2
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- 2 往生・浄土
浄土経典は阿弥陀仏の浄土の荘厳相について詳説し、一切衆生がひとしく往生を願うべき旨を説き述べている。天親菩薩はその経説によって『浄土論』を著し、阿弥陀仏の浄土を讃詠して、三厳二十九種(国土十七種・仏八種・菩薩四種)の功徳荘厳を説き示している。そして、その三厳の浄土について、「この三種の成就は、願心をもって荘厳せり」といい、浄土が法蔵菩薩の因位の願行によって成就された願心荘厳の世界であることを明らかにしている。
曇鸞大師はこれをうけて「この三種の荘厳成就は、本四十八願等の清浄願心の荘厳したまへるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり」(論註・下 一三九)と述べ、浄土建立の因が法蔵菩薩の清浄なる四十八願心であるから、成就された果の浄土も清浄であると説き、浄土といわれるゆえんを明らかにしている。その浄土に往生することの意義について曇鸞大師は「かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざることを明かすなり。なにをもつてこれをいふとならば、それ法性は清浄にして畢竟無生なり。生といふはこれ得生のひとの情なるのみ」(同・下 一二三)と述べている。浄土への往生は消滅を完全に超えた法性無生のことわりにかなった生(無生の生)であって、凡夫の認識するような実体的な生とはまったく異なるものである。それを往生といいあらわすのは得生者の情をあえて否定しないためである。大師は往生の実義をこのように明かし、さらに、「氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり」(同・下 一二六)と説いて、無生の理を知らず、往生を実の生ととらえる凡夫の見生の惑も、浄土に至ればその徳のはたらきによっておのずから消滅し、無生の智慧へと転じていくと主張している。
善導大師の時代、聖道の諸師は阿弥陀仏の国土を応土(応身仏の土)、あるいはまた凡聖同居土(凡夫と聖者が雑居する世界、応土に対応)などとする説を立てていた。善導大師は「玄義分 三三〇」において、阿弥陀仏の国土を本願に酬報した報土と判定し、諸師の説を斥けた。そのうえで、報土という高妙な世界に垢障の凡夫がどうして往生することができようかという問いを立てて、「もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。まさしく仏願に託してもって強縁となすによりて、五乗(人・天・声聞・縁覚・菩薩)をして斉しく入らしむることを致す」と答え、仏願力によって、凡夫(人・天)も聖者(声聞・縁覚・菩薩)もひとしく往生を遂げると説き、凡夫入報の義を明らかにしたのである。
この報土である阿弥陀仏の浄土をさらに報・化の二土に弁別したのは源信和尚である。源信和尚は懐感禅師の『群疑論』の釈によって、『菩薩処胎経』に説く懈慢界を化の浄土(報中の化)とし、雑修のものの生れる世界とした。そして、専修のものは報の浄土に生れると説き、専修と雑修の得失を浄土の得果の上にあらわしたのである。
親鸞聖人は以上のような釈義をうけて、真の仏土(真実報土)を光明無量、寿命無量の無上涅槃界とし、往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果をきわめると説き示した。さらに、仮の仏土(方便化土)を示して、自力信の往生者の感見に応じて現れた世界とし、真仮あわせて大悲の願界に酬報した報土であると明かされたのである。