「如来」と申すは…
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「にょらい」と もうすは 諸仏を申すなり。
阿弥陀仏の本願の救いを説くのは、釈尊だけでなく、すべての仏の出世の本意であるということを示す。 (一多 P.689)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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『無量寿経』で禅定(弥陀三昧)に入られている釈尊のお姿が光り輝き、あまりにも気高いので従者の阿難が、「今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とまします」(*)と、釈尊は今日は[1]どうしてこのような勝れたお姿を現されるのでしょうか、という問いに答えられた釈尊の応答の文が、
- 如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利
- 如来、世に興出したまふゆゑは群萌を
拯 ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。
- 如来、世に興出したまふゆゑは群萌を
である。
御開山は、この文で、釈迦という固有名詞ではなく如来という一般名詞が使われているから、この一段は釈尊だけでなくあらゆる諸仏を顕す意ととられた。すべての仏(如来)の出世の本懐を説く経が『無量寿経』であるとみられたのである。「正信念仏偈」の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海(如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり)」の如来の二字は、当初は釈迦とされていたが如来と書き改められたのもその意である。
近代の仏教では二千五百年前にインドに誕生された釈尊を、仏教の開祖として重視するのであるが、御開山の意では釈尊は真実の利である〔なんまんだぶ〕を説くために阿弥陀仏の第十七願に応じて出現された諸仏のひとりであるとみられていたのであった。『一念多念証文』で「如来と申すは諸仏を申すなり」、とされた所以である。
なお、『大経』の文は「所以出興於世 光闡道教 欲拯群萌 恵以真実之利(世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり)」であるが、『一念多念証文』での引文では「光闡道教」の文を省略されておられる。これは、道教は仏道全体をあらわす語であり、なんまんだぶの真実の利を示す出世の本意ではないとみられたからであろう。
- ↑ 日本語の「こんにちは」の出拠であるともいわれている。