一向専念無量寿仏
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一向専念無量寿仏
『無量寿経』下巻の三輩段に、
仏、阿難に告げたまはく、「十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生れんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。」
と、浄土往生を願う者を三種に分けて説く以下の文が「一向専念無量寿仏」の出拠。文言が漢文なので漢文へリンクした。読下しや現代語は当該科段番号をクリックされたし。
- 其上輩者、 捨家、棄欲、而作沙門、発菩提心、一向専念無量寿仏、修諸功徳、願生彼国。{中略}(*)
- 其中輩者、十方世界諸天・人民、其有至心、願生彼国。雖不能行作沙門 大修功徳、当発無上菩提之心、一向専念無量寿仏。{中略}(*)
- 其下輩者、十方世界諸天・人民、其有至心、欲生彼国。仮使不能作諸功徳、当発無上菩提之心、一向専意、乃至十念、念無量寿仏、願生其国。{中略}(*)
「一向専念無量寿仏」とは、「一向にもつぱら無量寿仏を念じ」ることであるが、この念じるとは、「一向専称弥陀仏名(一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむる)」ことであるとされたのは善導大師であった。名を称するのであるから称名の意である。
さて、善導大師が、この『無量寿経』の「一向専念無量寿仏」を称名であるとされた根拠は、『観経』の流通分の文からである。『観経』では定善と散善を説くのだが、その『観経』の教旨を未来に流通される段で、阿難に対して、
- 仏告阿難 汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名。
- (仏阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉)
とある「無量寿仏の名を持て」の文による。この文を善導大師は『観経疏』散善義で、
- 上来雖説定散両門之益 望仏本願意在衆生 一向専称弥陀仏名。
- (上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
と、釈尊の『観経』の説法は、阿弥陀如来の本願の意に望めて、「一向専称弥陀仏名(一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり)」と、説かれたと見られたのである。「この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とは、当然、名を持(たも)つのであるから称名である。
このように善導大師は『観経』を通して『無量寿経』の教説を釈された。『観念法門』p.630では、『無量寿経』の乃至十念を下至十声とされ、
- 又言摂生増上縁者 即如無量寿経四十八願中説。仏言若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚。
- {中略}
- 又此経下巻初云 仏説 一切衆生根性不同 有上中下。随其根性 仏皆勧 専念無量寿仏名。
- また摂生増上縁といふは、すなはち『無量寿経』(上・意)の四十八願のなかに説きたまふがごとし。「仏のたまはく、〈もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」(第十八願)と。
- {中略}
- またこの『経』(同)の下巻(意)の初めにのたまはく、「仏説きたまはく、 〈一切衆生の根性不同にして上・中・下あり。その根性に随ひて、仏(釈尊)、みな勧めてもつぱら無量寿仏の名を念ぜしめたまふ。
と、第十八願の乃至十念の十念と『無量寿経』下巻の上・中・下の三輩の「一向専念無量寿仏」の《念》とは、称名であるとされたのである。
なお、法然聖人は『選択集』三輩章で、この『観念法門』の文を引いて無量寿経の三輩について考察されておられる。
- わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
: 答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
- その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。
と、問答を設けて念仏と諸行について、廃立、助正、傍正の三つの観点から解釈されておられる。 当然、法然聖人にとっては、この前段の「本願章」念声是一釈において、
- 答へていはく、念・声は是一なり。なにをもつてか知ることを得る。『観経』の下品下生にのたまはく、「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉と称せば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く」と。
- いまこの文によるに、声はこれ念なり、念はすなはちこれ声なり。その意明らけし。(*)
と、『観経』下下品の、まさに死に瀕して、阿弥陀仏を念ずることも出来ない五逆罪をおかした者に「汝若不能念者 応称無量寿仏(汝もし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし)」の語によって念を《声》と見られての、念仏(称名)と諸行の対判であることは勿論である。
ただし、御開山の場合は『無量寿経』を真実の教とし『観経』には真仮の隠顕を見られる。そして、三輩段は第十九願の意と見られたので解釈が異なりややこしい。いわゆる願海真仮の立場から『観経』は第十九の願を持分として説かれた経であるとみられたのである。それはまた、第十九願の説相から、聖道門の者をして浄土門へ入らしめる誘因の願であるという思し召しもあったのであろう。「散善義」の深心釈で善導大師が『観経』の意を、
- また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。
と、示される「人をして欣慕せしめたまふ」の語を、この世での覚りを目指す自力聖道門の修行に行き詰った者へ、往生浄土の他力浄土門を欣慕せしめる言葉であると見られたのであろう。
ともあれ、『無量寿経』の第十八願の《乃至十念》を、『観経』の「至心令声不絶 具足十念称南無阿弥陀仏(心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ)」と合わせて解釈することは、そもそも経典が違うではないかという論難に対しては弱い。 そこで御開山が着目なさったのは、第十七願であった。第十七願には、
- 設我得仏 十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚。
- たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
とあって、そもそも十方世界の無量の諸仏に誓われた願であり、衆生に誓われた願ではない。しかし、この第十七願は、第十八願の「乃至十念」が称名であり、その称えられる南無阿弥陀仏が往生の因であることを知らしめる願であるとされたのである。十方世界の無量諸仏が、十方の衆生に遍くこの事を聞かせる願であるとされたのであった。
これはもちろん法然聖人が『三部経大意』で、第十八願を「つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり」とし、「その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり」とされた意を継承されておられるのである。聖覚法印の『唯信鈔』にも同意の指示がある。
このような発想は『阿弥陀経」の六法段の、
- 恒河沙数諸仏 各於其国出広長舌相 徧覆三千大千世界 説誠実言 汝等衆生 当信是称讃 不可思議功徳一切諸仏所護念経。
- (恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において、広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、〈なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし)」
に、依拠されて、第十七願に、諸仏が第十八願の不可思議功徳の乃至十念の称名を勧められたとみられたからであろう。 第十七願は諸仏の願であって、そもそも菩薩や声聞や縁覚や、まして凡夫のための願ではない。しかし御開山は、本願を信楽した凡夫の口に称えられる名号は、諸仏の位と同じ行であるというので、
- 大行者則 称無礙光如来名。
- 大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり。
と、大行といわれたのである。なお、ここで御開山が、大行という言葉を使われたのは、御開山が二十年修学しておられた天台大師の『摩訶止観』の大行という言葉が契機であろうと聴いたことがある。 ともあれ、凡夫の口先に称えられている弱弱しく覚束ない称名であるが、それは『摩訶止観』や凡夫が思い描くような行とは全く次元が異なる行であるから、
- 然斯行者 出於大悲願。
- しかるにこの行は大悲の願より出でたり。
と、されるのであった。行の出処が違うのである。ゆえに正信念仏偈に「本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)」と、往生を正しく定めて下さった行業になるのである。もちろん、
- 真実信心 必具名号 名号必不具願力信心也。
- 真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。
の、真実信心の名号であるのはあたりまえである。もっとも願力を具せざる名号であっても、名号の徳用として化土の浄土への往生の一分の利益を得させるのが第十九願、第二十願の役割ではある。
このようにみてくると、三輩段の「一向専念無量寿仏」の語には、真仮が入り混じっているが、ひとむき(一向)に専ら無量寿仏を念(称名の意)ずることと取れば、御開山の示される化土へ往生させようという、大悲の極みであるとも取れるであろう。少なくともありもしない信心とやらを妄想し拵えようとする輩は行が無いから流転輪廻するのであろうが、たとえ訳が解からなくても、なんまんだぶを称える者は、この世の娑婆が打ち止めであり西方仏国へ往生するのである。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ