能説の…知るを
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のうせつの…しるを
原文には「亦」(また)の上に「雖念」(念ずといえども)の字があり、「能説可説あることなく、念ずといえども、また能念可念なしと知るを」と読む。 (真巻 P.371)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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念仏三昧宝王論の文
故起信論云。若知雖説無有能説可説。雖念亦無能念可念。名爲隨順。若離於念。名爲得入。得入者眞如三昧也。況乎無念之位。在於妙覺。蓋以了心初生之相也。而言知初相者。所謂無念。非菩薩十地所知。而今之人。尚未階十信。即不依馬鳴大士。從説入於無説。從念入於無念。
御開山の引文
起信論曰。若知雖説無有能説可説 亦無能念可念 名為随順。若離於念 名為得入。得入者 真如三昧也。況乎。無念之位 在於妙覚 蓋以了心 初生之相也。而言知初相者 所謂無念 非菩薩十地所知。而今之人 尚未階十信 即不依馬鳴大士。従説入無説 従念入於無念。