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一念転釈

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2013年2月4日 (月) 19:28時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

一念転釈

信巻末の「一念転釈」で、

しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ「専心」なり。(『註釈版聖典』二五二頁)

と、第十八願成就文の「一念」を「専心」であるとされ、以下十九句をあげて釈しておられる。この釈は本願回向のご信心の徳をあらわすために、いろいろな信心の異名をあげ転釈されておられるのである。この経・論・釈からの十九句の意味と出拠を梯和上の『教行信証』信巻から窺ってみる。なお原文は漢文なので参考としてあげておく。

専心 即是深心。
深心 即是深信。
深信 即是堅固深信。
堅固深信 即是決定心。
決定心 即是無上上心。
無上上心 即是真心。
真心 即是相続心。
相続心 即是淳心。
淳心 即是憶念。
憶念 即是真実一心。
真実一心 即是大慶喜心。
大慶喜心 即是真実信心。
真実信心 即是金剛心。
金剛心 即是願作仏心。
願作仏心 即是度衆生心。
度衆生心 即是摂取衆生 生安楽浄土心。
是心 即是大菩堤心。
是心 即是大慈悲心。
是心 即是由無量光明慧生故。
願海平等故発心等。発心 等故道等。
道等 故大慈悲等。大慈悲者 是仏道正因故。


(1)専心とは、専一の心という意味で一心のことであり、無二心、すなわち無疑心であることを示されたものです。


(2)深心とは、『観無量寿経』に説かれた三心の第二心ですが、他力の三心は深心に帰一し、本願の信楽と同じ無疑の一心であることを示されたものです。


(3)深信とは、「散善義」の深心釈に「深心といふはすなはちこれ深く信ずる心なり」(『註釈版聖典』七祖篇四五七頁)といわれたように、深心は、機と法の真実を疑いなく聞き受けて深く信じている心であることを顕しています。


(4)堅固深信とは、「散善義」に「この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず」(『註釈版聖典』七祖篇四六四頁)といわれているように、何ものにも破壊されることのない堅固な信心であることをいいます。


(5)決定心とは、二種深信を表すときに、機法ともに「決定して深く信ず」といわれているように、深心の相を決定心として表されていたからです。


(6)無上上心とは、『般舟讃』に「われらが無上の信心を発起せしめたまふ」(『註釈版聖典』七祖篇七一五頁)といわれたものや、「玄義分」に「おのおの無上心を発せ」(『註釈版聖典』七祖篇二九七頁)といわれたものによって、造語されたもので、信心を「無上にして殊勝(上心)なる心」という意味で無上上心といわれたものです。


(7)真心とは、無上上心であるような信心は、如来より回向された真実心であるということを表したもので、言葉は「序分義」(『註釈版聖典』七祖篇三七四頁)や、『往生礼讃』の後述(『註釈版聖典』七祖篇七0七頁)に「真心徹到」といわれているものによられたものでしょう。


(8)相続心とは、真実の信心は、余念(自力のはからい)がまじわらないから、生涯、間断することなく相続するというので、信心の異名とされています。次の淳心とともに、『往生論註』下(『註釈版聖典』七祖篇一0三頁)の讃嘆門釈に不如実修行を表す三不信のなかに不相続心として表されていました。相続心といわれたのは、『安楽集』上(『註釈版聖典』七祖篇二三二頁)です。


(9)淳心とは、自力の虚飾のまじわらない淳朴な心ということであり、浅薄な自力の心に対して、淳厚な他力の信心を表す名称です。『往生論註』では、不如実の心として、信心不淳といわれていますが、『安楽集』では、如実の信心を表す言葉として淳心といわれています。


(10)憶念とは、一般には、心にとどめて忘れないことですが、『一念多念文意』には、「念は如来の御ちかひをふたこごろなく信ずるをいふなり」(『註釈版聖典』六九二頁)といわれており、『唯信紗文意』には、「憶念とは、信をえたるひとは疑いなきゆゑに本願ををつねにおもひいづるころのたえぬをいふなり」(『註釈版聖典』七0五頁)といわれています。すなわち憶念とは、本願を疑いなく受け容れ、思い浮かべている信心のこととみなされています。


(11)真実の一心とは、「化身土文類」に、『阿弥陀経』の一心を釈して、「一の言は無二に名づくるの言(みこと)なり。心の言は真実に名づくるなり」(『註釈版聖典』三九八頁)といわれていました。すなわち『阿弥陀経』に顕の義で説かれた一心は自力の信心ですが、隠彰の意味で読み取れば、他力真実の一心であると顕されたわけです。親鸞聖人は、信心が一心であるということを『浄土論』によって論述されています。しかし『阿弥陀経』を隠彰の義で拝読すれば、信心を一心と説かれている一面のあることを示されたものです。


(12)大慶喜心とは、『無量寿経』の「東方偈」には、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば」(|『註釈版聖典』四七頁)と説かれており、その意によって「正信偈」には「獲信見敬大慶喜」(『註釈版聖典』二0四頁)といわれています。その「大慶」について『尊号真像銘文』には、「大慶は、おほきにうべきことをえてのちによろこぶといふなり」(『註釈版聖典』六七三頁)といわれています。すなわち、聞くべきことを聞き受け、疑いなく信じていることを大いに喜ぶ心が信心でもあることを示された言葉です。そのような慶喜心は、人間の心から出てくるものではなく、如来から与えられた信心に自ずから具わっている喜びだったのです。


(13)真実信心とは、『往生礼讃』に深心を釈して、「すなはちこれ真実の信心なり」(『註釈版聖典』七祖篇六五四頁)といわれたものがそれです。その真実とは、如来の悲智円満の真実心をいい、そのような仏心が衆生に回向された信心であるから、真実信心といわれるというのが親鸞聖人の領解です。


(14)金剛心の金剛について、『六要妙』第一に、「金剛というは、他力の信楽堅固にして動ぜざること瞼えを金剛に仮る、これ不壊の義なり」(『真聖全』二、二一0頁)といわれています。すなわち本願力回向の信楽は、仏智であるような心ですから、堅固であって、何ものにも破壊されることがない、不破、不変、不動の徳を持っていることを金剛に喩えたといわれるのです。もともと金剛とは金剛石、ダイヤモンドですが、武器でいえば武神であるインドラの持っている金剛杵です。金剛石は最高の硬度をもっている堅固な宝石であり、ほかの何ものにも破壊されることがなく、反対にどんなものでも切ることができる鋭利なはたらきを持っています。金剛杵も鋭利な武器で、どんなに堅固な鎧でも刺し貫くはたらきを持っているといわれています。信心も、自力発起の信ならば、かならず「異学、異見、別解、別行の人等」によって動乱、破壊せられることがあります。しかし、仏智を体としている信楽は堅固であって、何ものにも破壊されないから金剛に瞼えられたわけです。


(15)願作仏心とは、仏になろうと願う心で、自利の成就を期する心です。


(16)度衆生心とは、衆生を済度しようと願う心ですから、利他の成就を期する心です。願作仏心と度衆生心は、自利と利他の成就を誓願する菩提心の両面を表したものです。


(17)衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心とは、度衆生心を説明されたものです。衆生を済度するということは、妄念煩悩を断ち切って解脱せしめ、安らかな涅槃の領域に到達させていくことです。 その涅槃の境界こそ、阿弥陀仏が大智大悲をこめて成就された安楽浄土です。五濁無仏の世界で、煩悩にまつわられている苦悩の衆生を救う道は、安楽浄土に往生せしめていくほかに道はありません。それゆえ衆生を済度するとは安楽浄土に生まれしめることであるといわねばなりません。曇鸞大師が、「かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」(『註釈版聖典』七祖篇一四五頁)といわれたゆえんです。


(18)大菩提心とは、願作仏心、度衆生心、摂取衆生生安楽浄土心という三種の心が、要するに自利と利他の完成を願う大菩提心の内容であるということです。とくに度衆生心を具体化した心は、衆生を安楽浄土に往生せしめようと願う心であるといわれているところに、浄土の大菩提心の特色が示されています。

 これらは『往生論註』の善巧摂化章によった釈です。そこには、『無量寿経』の三輩段の無上菩提心を釈して、「この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり」(『註釈版聖典』七祖篇一四四頁)といわれていました。


(19)大慈悲心とは、一切衆生の苦悩を取り除いて(悲)、真実の安楽を与えよう(慈)と願う心です。それは自他一如をさとる智慧の必然としておこる心であって、大菩提心の根源となる心です。曇鸞大師は、「大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに」(『註釈版聖典』七祖篇六一頁)と仰せられています。阿弥陀仏は、大慈悲心を具体化して衆生救済の本願をおこされましたが、この本願こそ阿弥陀仏の大菩提心の表現だったのです。阿弥陀仏の本願、すなわち大菩提心は、「衆生を決定して摂取する」という信楽の言葉(南無阿弥陀仏)として、私たち一人ひとりに届き、その本願招喚の勅命をはからいなく受け容れる私の信楽(信心)となって、私のうえに実現していきます。ですから、信心は大菩提心であり、大悲心でもあるのです。すでに述べたように、親鸞聖人が信楽釈で「この心(信楽)はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる」(『註釈版聖典』二三五頁)と仰せられたとおりです。

 こうして最後に、「この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに」(『註釈版聖典』二五二頁)といわれた「この心」とは、遠くは転釈のはじめの一念から、近くは大慈悲心まで、すべてを承けた言葉であって、要するに大慈悲心であり、大菩提心であるような信心は、凡夫の心から出てくるものではなくて、阿弥陀仏の「無量光明慧」によって生じてきた心であって、その本体は不可思議の仏智であるような信心であると結論づけられるのです。なお「無量光明慧」という言葉は、龍樹菩薩の「易行品」(『註釈版聖典』七祖篇一五頁)から採られたものです。