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安心論題/信一念義

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(8)信一念義


 信の一念ということは、宗祖聖人によって明らかにされました。これによって信心正因の宗義が徹底して解明されたといっても過言ではないと思われます。
 古来、異解・異安心といわれるものの多くは、この信一念についての誤った理解によるといえましょう。信一念の時は本人にわかるのか、わからないのか。その時の体験はどのようであるのか。そうした体験はもう済んだのか、まだなのか。等々の論議は、宗祖の信一念釈の思召しとはおよそかけ離れた戯論でありましょう。


『教行信証』のに信巻(真聖全二―七一)、

それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰わすなり。

と信一念の釈をされています。これは行巻に(真聖全二―三四)、

およそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。

とかかげて、行の一念について解釈せられ、いま信巻ではその信の一念について解釈されるのであります。本願成就文には(真聖全一―二四)、

聞其名号信心歓喜、乃至一念……即得往生住不退転。
(その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん……すなわち往生をえ不退転に住せん。)

と説かれています。この本願成就文の「一念」について解釈されたのが、前にかかげた信一念釈です。

一念とは、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、

というのは、一念の「念」を時剋の義、「一」は極促の義とされています。極促の「促」とは「延」に対する語で、延は時剋ののびたところ、信相続の時ですから、乃至一念の「乃至」にあたります。それに対し、促は時剋のつづまったところ、すなわち信心のおこった最初の時を指します。今は極促といわれるのですから、それより前のない極めての初際、信心のおこった最初の時が「一念」であると示されます。

広大難思の慶心を彰わすなり。

というのは、「慶心」は疑い晴れた喜びの心相で、信楽の「楽」の意味、また信心歓喜の「歓喜」の意味であります。信心をいただいた最初の時、その時は無念無想でもなく、また他の心相があるのでもありません。ご本願に疑い晴れた喜びの心相、すなわち信楽があるといわれるのです。そうでなければ信楽の開発した一念とはいえません。
 「広大難思」というのは、「慶心」すなわち信楽の徳を示されたものとうかがわれます。これを、初起一念の時には必ず手の舞い足の踏むところを知らない広大な喜びが体験されるというように、喜びぶりを示す語と理解するのは誤りでしょう。信巻の真仏弟子の釈の結びに(真聖全二―八〇)、

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞……定聚の数に入ることを喜ばず、真証のさとりに近づくことをたのしまざることを、恥ずべし傷むべし。

と仰せられ、『歎異抄』の第九章にも(真聖全二―七七七)、

よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたもうべきなり。 よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。

等と示されています。初起一念の時だけ広大難思のよろこびがあって、それ以後の相続の上にはそのような広大な喜びがないとはいえません。信楽は初後一貫するものであります。
 それならば、まったく喜べないのかと申しますと、そうではありません。宗祖は「慶ばしいかな」(真聖全二―一、二―二〇三)と仰せられています。世間のそらごとたわごとの喜びとは異なって、如来の救いに遇わせていただいた喜びは、生涯変わることのない究極の喜びであり、まことの喜びであります。ただ初起一念の時だけ言語に絶する特別な喜びが味わわれるものだと断定することは、祖意に合わないものといわねばなりません。


 このように、本願成就文の「一念」を信初発の時であると示されることによって、その信初発のとき直ちに真実報土に往生すべき身に定まるという宗義が明らかになります。
 「即得往生住不退転」については、別して(23)「即得往生」の論題でうかがいますが、宗祖はこれを現生の益と見られ、真実報土に往生すべき身に定まること、仏となるべき身になることと解釈されます。そうしますと、聞其名号信心歓喜の初一念の時、即時に仏となるべき身にしていただく。受法(名号を聞信したとき)と得益(仏となるべき身に定まる)とが同時であるという義が明確になります。受法と得益とが同時であるということは、名号を聞信する一つが往生の正因であって、それ以外に因はないということで、信心正因ということが徹底して顕わされます。
 もし、受法の後どれほどかの時間を経て、はじめて得益するというのであれば、その間に私どもの身口意の三業のしわざが加わって、それで得益するということになります。それでは唯信独達の宗義は徹底しないことになりましょう。  こういうわけで、「一念」を信楽開発の時剋の極促であると示されたことによって、信心正因の宗義がいよいよ明らかになるのであります。


 この受法と得益とが同時であるということで、この信一念釈と対照されるのは、行巻の六字釈における「必得往生」のご解釈であります。その必得往生について、本願成就文の「即得」と『易行品』の「必定」とをあげ(真聖全二―二二)、

「即」の言は、願力を聞くによって報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

と仰せられています。「願力を聞く」とは聞其名号のことで、この聞は聞即信の如実の聞であります。「報土の真因決定する時剋の極促」とは、聞信の初一念に直ちに正定聚の身に定まるということで、今の信一念釈と同じ意味であります。
 行巻の六字釈における「即」の釈は、名号大行はこれを聞信すると同時に仏となるべき身に定まるところの大行であると、大行のはたらき(力用)を示されます。信巻の信一念釈は、本願の信楽は、これが開発したと同時に仏となるべき身に定まるところの大信であると、大信の徳を示されるのです。


 以上は、本願成就文の「一念」を時剋の極促とされる、いわゆる時剋の釈でありますが、宗祖には今一つ、この「一念」を無二心とされる、いわゆる心相の釈が示されています。それは本願成就文の「聞」「信心」「歓喜」「乃至」「一念」の語を順次に解釈されるところに(真聖全二―七二)、

「一念」というは、信心二心なきが故に一念という。これを一心と名づく。一心はすなわち清浄報土の真因なり。

と仰せられます。この場合は「一」は無二の義、「念」は心の義であって、一念とはふたごころがないということ、すなわち如来の願力にうちまかせて、私のはからいがすっかりとれた心相を意味します。これは信じぶりをあらわされるのです。
 本願成就文の上では、「乃至一念」とあって、乃至のついた一念ですから、信心歓喜は一生涯相続するが(乃至)、その最初の時(一念)というように見るのが、経文当分の解釈であります。
 しかし、宗祖は更にその信心とはどのような信じぶりであるかということを顕わすために、一念とは無二心である、一心である、という宗義を顕わす釈をお示しくださったものとうかがわれます。
 蓮如上人が「たのむ一念のところ肝要なり」(御一代記聞書、真聖全三―五七七)と仰せられるのは、雑行をすてて一心に弥陀をたのむことが肝要であるといわれるのであって、初起一念の時が肝要であるといわれるのではありません。「たのむ一念のとき往生一定おんたすけ治定」(領解文)という場合は、信益同時の義をあらわされるのであります。このように、「一念」には時剋をあらわす場合と心相をあらわす場合とがあって、時剋の釈の場合は必ず信益同時の宗義を示されるものであるということに留意しなければなりません。


 およそお聖教を拝見する場合には、一部分の文だけ切り離して見るのではなく、前後の分との関連において見なければなりません。
 信一念釈は、信巻の中にあって、問答によって三心と一心との関係を論ぜられる中に示されています。そこでは、初めに三心は信楽一心におさまることを示され、次にその一心が正因である旨を示されています。その一心が正因である旨を示される中、まず信楽一心の徳を嘆ぜられ、次にこの信楽が仏果を得べき他力の大菩提心であると示され(菩提心釈)、最後にそのような信楽であるから、これが開発したとき仏となるべき身に定まる旨を示されたのが信一念釈であります。故に信一念釈の終わりには(真聖全二―七三)、

故に知んぬ、一心これを如実修行相応と名づく。すなわちこれ正教なり……これ正智なり。

と結ばれ、そのあとに上来の三心と一心との関係を論ずる一段全体を結んで(真聖全二―七三)、

三心即一心なり。一心即金剛真心の義、答へおわんぬ。知るべし。

と仰せられています。
 このように見てまいりますと、信一念の時はいつであったか、その時の様子はどうであったか、などということを穿鑿することは、宗祖の思召しにあわないということが知られましょう。
 要は信楽一心が正因であるから、名号のいわれをよくお聞かせいただき、如来の願力にお任せできた身になることが大切であるとお示しくださるのであります。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p96~