弥陀如来名号徳
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弥陀如来名号徳
【1】 無量光といふは、『経』(観経)にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好まします。一々の好にまた八万四千の光明まします。一々の光明あまねく十方世界を照らしたまふ。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず」といへり。恵心院の僧都(源信)、このひかりを勘へてのたまはく(往生要集・中)、「一々の相におのおの七百五倶胝六百万の光明あり、熾然赫奕たり」(意)といへり。一相より出づるところの光明かくのごとし、いはんや八万四千の相より出でんひかりのおほきことをおしはかりたまふべし。この光明の数のおほきによりて、無量光と申すなり。
【2】 つぎに無辺光といふは、かくのごとく無量のひかり十方を照らすこと、きはほとりなきによりて、無辺光と申すなり。
【3】 つぎに無碍光といふは、この日月のひかりは、ものをへだてつれば、そのひかりかよはず。この弥陀の御ひかりは、ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無碍光仏と申すなり。有情の煩悩悪業のこころにさへられずましますによりて、無碍光仏と申すなり。無碍光の徳ましまさざらましかば、いかがし候はまし。かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだに、十万億の三千大千世界をへだてたりと説けり。その一々の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり、高さ須弥山とひとし。つぎに小千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ色界の初禅にいたる。つぎに大千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第二禅にいたれり。しかればすなはち、もし無碍光仏にてましまさずは一世界をすらとほるべからず、いかにいはんや十万億の世界をや。かの無碍光仏の光明、かかる不可思議の山を徹照してこの念仏〔の〕衆生を摂取したまふに、さはることましまさぬゆゑに無碍光と申すなり。
【4】 つぎに清浄光と申すは、法蔵菩薩、貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。貪欲といふに二つあり、一つには婬貪、二つには財貪なり。この二つの貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。よろづの有情の汚穢不浄を除かんための御ひかりなり。婬欲・財欲の罪を除きはらはんがためなり。このゆゑに清浄光と申すなり。
【5】 つぎに歓喜光といふは、無瞋の善根をもつて得たまへるひかりなり。無瞋といふは、おもてにいかりはらだつかたちもなく、心のうちにそねみねたむこころもなきを無瞋といふなり。このこころをもつて得たまへるひかりにて、よろづの有情の瞋恚・憎嫉の罪を除きはらはんために得たまへるひかりなるがゆゑに、歓喜光と申すなり。
【6】 つぎに智慧光と申すは、これは無痴の善根をもつて得たまへるひかりなり。無痴の善根といふは、一切有情、智慧をならひ学びて無上菩提にいたらんとおもふこころをおこさしめんがために得たまへるなり。念仏を信ずるこころを得しむるなり。念仏を信ずるは、すなはちすでに智慧を得て仏に成るべき身となるは、これを愚痴をはなるることとしるべきなり。このゆゑに智慧光仏と申すなり。
【7】 つぎに無対光といふは、弥陀のひかりにひとしきひかりましまさぬゆゑに、無対と申すなり。
【8】 つぎに炎王光と申すは、ひかりのさかりにして、火のさかりにもえたるにたとへまゐらするなり。火の炎の煙なきがさかりなるがごとしとなり。
【9】 つぎに不断光と申すは、この光のときとしてたえずやまず照らし……
【10】 ……ちにておはしますひかりなり。超といふは、この弥陀の光明は、日月の光にすぐれたまふゆゑに、超と申すなり。超は余のひかりにすぐれこえたまへりとしらせんとて、超日月光と申すなり。十二光のやう、おろおろかきしるして候ふなり。くはしく申し尽しがたく、かきあらはしがたし。
【11】 阿弥陀仏は智慧のひかりにておはしますなり。このひかりを無碍光仏と申すなり。無碍光と申すゆゑは、十方一切有情の悪業煩悩のこころにさへられずへだてなきゆゑに、無碍とは申すなり。弥陀の光の不可思議にましますことをあらはししらせんとて、帰命尽十方無碍光如来とは申すなり。無碍光仏をつねにこころにかけ、となへたてまつれば、十方一切諸仏の徳をひとつに具したまふによりて、弥陀を称すれば功徳善根きはまりましまさぬゆゑに、龍樹菩薩は「我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水」(十二礼)とをしへたまへり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたり。不可思議光仏のゆゑに「尽十方無碍光仏と申す」と、世親菩薩(天親)は『往生論』(浄土論)にあらはせり。阿弥陀仏に十二のひかりの名まし……
【12】 ……『浄土論』にあらはしたまへり。いふ、諸仏咨嗟の願(第十七願)に大行あり。大行といふは無碍光仏の御名を称するなり。この行あまねく一切の行を摂す。極速円満せり。かるがゆゑに大行となづく。このゆゑによく衆生の一切の無明を破す。また煩悩を具足せるわれら、無碍光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。
【13】 難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり。
【14】 つぎに無称光と申すは、これも「この不可思議光仏の功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の『讃阿弥陀仏の偈』には、難思光仏と無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。この不可思議光仏のあらはれたまふべきところを、かねて世親菩薩(天親)の……
【15】 ……としとみえたり。自力の行者をば、如来とひとしといふことはあるべからず。おのおの自力の心にては、不可思議光仏の土にいたることあたはずとなり。ただ他力の信心によりて、不可思議光仏の土にはいたるとみえたり。かの土に生れんとねがふ信者には、不可称不可説不可思議の徳を具足す。こころもおよばれず、ことばもたえたり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたりとなり。
南無不可思議光仏
[草本にいはく] [文応元年庚申十二月二日これを書写す。]
[愚禿親鸞八十八歳書きをはりぬ。]