解信
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げしん
教法をそのまま仰ぎ受け容れないで、教法の道理を論理的に理解して信じるのを解信といい、ひたすら〔阿弥陀仏の信(まこと)〕を仰ぐことを「
法然聖人は『西方指南鈔』所収の「浄土宗大意」で、
- 聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。→(「浄土宗大意」p.1026)
といわれていた。聖道門を解信、浄土門を仰信であるとみられていたのであろう。「智慧第一の法然房」とたたえられた法然聖人であったが、仏果を得る成仏道については「愚痴にかへりて極楽に生まる」と選択本願による仰信の浄土門を示されていた[1]。
御開山は、その法然聖人の示して下さった念仏往生の教えを『歎異抄』では、
- 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。→義なきを義とす
と、愚直に〔なんまんだぶ〕を称えるだけで別の子細はないといわれていた。
- →仰信
- →因分可説/果分不可説
- →義なきを義とす