元照
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がんじょう
(1048-1116)北宋代、
はじめ天台を学び、のち律宗に帰して『行事鈔資持記』十六巻を著したが、晩年病にかかり自らの微力を知って深く浄土教に帰依した。『観無量寿経義疏』三巻『阿弥陀経義疏』一巻を著し、念仏往生をすすめた。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:元照
がんじょう/元照
宋・慶暦八年(一〇四八)—政和六年(一一一六)。大智律師。余杭銭塘(浙江省杭州市)の人。杭州の西湖東岸の霊芝崇福寺に三〇年間居住。父の唐氏、母の竺氏ともに奉仏者。幼年で杭州祥符寺の慧(恵)鑑律師に師事して律蔵を学ぶ。その後、桐江択瑛とともに神悟処謙に師事して天台教学を学ぶも、再び戒律の研究に専心し、道宣の南山律を再興し南山律宗の一六祖と仰がれる。若い頃には浄土教に否定的であったが、三〇代半ば、重病にかかり死後の不安を感じて浄土教に帰依した。以来、戒律と浄土教の研鑽と教化に励んだ。戒律と浄土教を中心に仏教関係、さらには儒教関係、また出家僧の行業記・墓塔銘、在家信者の墓誌銘など多数の長短の著作があり、そのうち一〇〇篇前後が現存する。元照の基本的な立場は、戒律と浄土教の双修・融合であり、常にそれを意識して教化していた。その浄土教の特色としては、天台智顗に仮託される『十疑論』の所説を重視するが、それと並行して善導の『観経疏』玄義分と『往生礼讃』の所説を受容して、阿弥陀仏の本願による易行の称名念仏を凡夫に勧めている。宋代において善導に注目しその思想を受容した点は中国浄土教史の上で注目される。元照の戒律思想は鎌倉期以後の律学に大きな影響を与え、その浄土教は、凝然『三国仏法伝通縁起』上によると、入宋した俊芿(一一六六—一二二七)が日本に伝えたという。そして法然の門流の諸師に注目され、証空、聖光、良忠に引用があり、とくに長西、親鸞に影響が顕著である。
【参考】高雄義堅『宋代仏教史の研究』(百華苑、一九七五)、石田充之「親鸞における浄土の問題」(印仏研究二四—一、一九七五)、日置孝彦「霊芝元照の浄土教思想」(印仏研究二四—二、一九七六)、佐藤成順『宋代仏教の研究—元照の浄土教』(山喜房仏書林、二〇〇一)
【執筆者:佐藤成順】
元照律師は、死後の安楽を願わず、何度も苦の娑婆へ生まれ変わって衆生を救済したいとの大乗菩薩の願いをもっており、当初は浄土教を見下していた。
しかし、自分が病に倒れてから、このまま死んでは全てを忘れてしまう「分段生死」でしかない己の現実に気付いて浄土教に帰したといわれる。
それには、伝智顗撰(伝とは智顗撰として伝えられているという意で真撰ではないということ)とされる『淨土十疑論』が多大な影響を及ぼしたのであろう。
浄土往生を願うのは、自らの往生だけを願うのではなく、衆生済度の為に浄土を願生するのである意を『淨土十疑論』の以下の文に触発されたのであった。
明往生意者、所以求生浄土、為欲救抜一切衆生苦故。
- 往生の意をあかすとは、浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。
即自思忖、我今無力、若在悪世、煩悩境強自為業縛、淪溺三塗動経劫数、如此輪転、無始已来未曽休息、何時能得救苦衆生?
- すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世に在りて、煩悩の境強く、みづから業縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。
為此求生浄土親近諸仏、若証無生忍、方能於悪世中救苦衆生。
- これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。
故『往生論』云。言発菩提心者、正是願作仏心、願作仏心者、則是度衆生心、度衆生心者、則是摂衆生生仏国心。
- 故に『往生論』に云く、菩提心者を発すと言ふは、正しくこれ願作仏心なり、願作仏心とは、則ちこれ度衆生心なり、度衆生心とは、則ちこれ衆生を摂して仏国に生ぜしむる心なり。(淨土十疑論)
その浄土教を見下していた意を痛み『阿弥陀経義疏』に、
と、述懐されていたのである。