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もし宿善開発の機にてもわれらなくは

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2022年4月29日 (金) 11:08時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

しゅくぜんかいほつのきにてもわれらなくは

 「われらもし宿善開発の機にてもなくは」、または「もし宿善開発の機にてもなくはわれら」の倒置。(御文章 P.1151)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。(御文章 P.1151)

ここでの「われら」は阿弥陀仏の救済の対象としての我らである。しかし、「われらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと」を文面上で読めば、この我らは法を説く坊主たちなのかといふ疑問も生じる。 家のじいさんは十数年にわたってこの問いをお寺や多数の坊さんや布教使に問うたのだが全く返事が無かったことに落胆していた。
明治生まれで尋常学校卒のじいさんは辞書を引きながら大谷派の赤本(真宗聖典)を読み、自分が領解した文には強調する横線だらけであった。「聖典」といふものは我らのいのちを託するものであるから、真宗の坊さんはまじめに門徒の問いに答えてほしいと思ふ。いわゆる文章レトリック倒置法はわかりぬくいので誤解を生じやすいよ思ふ。

われらもし宿善開発の機にてもなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。
もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。