証文
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しょうもん
Ⅰ 証拠となる文。親鸞聖人は「御消息」(一六) の中で法然上人に言及して「文沙汰してさかさかしき人のまゐりたるをば、往生はいかがあらんずらんとたしかにうけたまはりき」と述べている。(御消息P.711)、(歎異抄 P.840)
Ⅱ 『往生要集』(中) 所引の『宝積経』の文 (註釈版聖典七祖篇九六九頁一一行以下)、同文にもとづく「七箇条制誡」第二条の文。ここではとくに後者の文を指す。(歎異抄 P.841)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『往生要集』では下記の『宝積経』の文を直接引き、『七箇条制誡』の二では、己の才覚をもって感情的に議論を闘わすことを、
- 右の論義は、これ智者の有なり。さらに愚人の分には非ず。また、諍論のところには、もろもろの煩悩おこる、智者これを遠離すること百由句なり。いわんや一向念仏行の人においておや。(好致諍論事)
とある。念仏する者にとっては「同一念仏 無別道故」の仏道であるのだが、信心に固執して、阿弥陀如来の済度の「法」である〔なんまんだぶ〕を軽視するから、信心正因 称名報恩といふ教義 概念を誤解して、称名は(ありもしない)信心のオマケだと思っているのであった。
『宝積経』(『大正蔵』十一、五二十八頁)
- 戯論諍論処 多起諸煩悩
- 戯論・諍論の処は、多くもろもろの煩悩を起す。
- 智者応遠離 当去百由旬
- 智者は遠離すべきこと、まさに百由旬を去るべし。
p711