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「
和朝親鸞聖人御影以下、
- 憶念弥陀仏本願
- 自然即時入必定
- 唯能常称如来号
- 応報大悲弘誓恩
の文は、覚如上人による修復以後の墨跡である。覚如上人は「正信念仏偈」の「龍樹讃」にある「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定」という信心正因に親しい文と「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」という常称報恩を示す語を用いることによって「信心正因 称名報恩」の義意を強調して顕そうとされたのであろう。ゆえに、この御影の修復時に、あえて下記に示す原讃銘を書き換え改作をされたのであろうと思われる。
以下に、修復以前の親鸞聖人の原讃銘を、『浄土真宗聖典全書』二 p901~902から引用しておく。詳細は同書p886の解説を参照されたし。
{上段}
- (本願名號正定業 至心信樂願爲)因
- (成等覺證大涅槃 必至滅度願成)就
- (如來所以興出世 唯說彌陀本願海)
- (五濁惡時群生海 應信如來如實)言
- (能發一念喜愛心 不斷煩惱得)涅槃
- (凡聖逆謗齊廻入 如衆水入海一)味
- (攝取心光常照護 已能雖破無明)闇
- (貪愛瞋憎之雲霧 常覆眞)實信心天
- (譬如日光覆雲霧 雲霧之下)明無闇
- (獲信見敬大慶喜 卽橫超截五惡)趣{文}[1]
- 原讃銘を切断塗抹の上、現讃銘を墨書継紙。()内は切断した部分の推定。
{下段}
- 原讃銘を切断塗抹の上、描表装。
{裏書}
- 專阿彌陀佛{信實朝民息也 號袴殿}
- 奉拜聖人御存生之尊像泣奉圖畫之 末代無雙重寶仰可歸敬之
- 毛端不奉違{云々} 所得其證也
- 延慶三歲{庚戌}十一月廿八日以前奉修捕遂供養記
- 應長元歲{辛亥}五月九日於越州
- 敎行證講談之次記之了
新字
{裏書}
専阿弥陀仏{信実朝民息也 号袴殿}
奉拝聖人御存生之尊像泣奉図画之 末代無双重宝仰可帰敬之
毛端不奉違{云々} 所得其証也
延慶三歳[4]{庚戌}十一月廿八日以前奉修捕遂供養記
応長元歳{辛亥}五月九日於越州
教行証講談之次記之了[5]
- ↑ この「正信念仏偈」の「本願名號正定業」以下「卽橫超截五惡趣」迄の二十句は、『安城の御影』の下部の讃銘と同じであり、またこの文は『尊号真像銘文』p.670で詳しく解釈されておられることに注意。御開山にとっては重要な意味を持っていたのであろう。
- ↑ 源空聖人の云く。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。◇『選択集』信疑決判の文。p.1248
- ↑ 釋親鸞の云ふ。生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。すみやかに寂静無為の城(みやこ)に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。 「正信念仏偈」源空讃。p.207
- ↑ 1310年。この年に覚如上人、関東の門徒の賛意を得て大谷廟堂の留守職に就任。
- ↑ この年(1311)、覚如上人は、息男の存覚上人とともに越前へ下向し大町専修寺の如道に二〇日余にわたり『教行証文類』を講義したといわれる。その時に御開山のご影も持参し開示したのであろう。