若不生者のちかひ
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『大経』の四十八願に、衆生の「生因三願」として、第十八願、第十九願、第二十願の三願が説かれるのだが、法然聖人が第十八願を「王本願」とされたように「第十八願」が根本の願であった。それは、他の願と違い第十八願には「若不生者 不取正覚(もし、生ぜずば正覚を取らず)」と、あるからである。それは阿弥陀仏が他なる衆生を、他なる己として「他己」として摂取するからであった。自らの内に他を見、他の中に自を見るからである。
他力とは、阿弥陀仏の本願力による救済に自己のはからいを捨てて仏に全託することであった。それは、また仏に証せられることであった。
近代の仏教では「自覚」という自己認識の語を使うのだが、自己が自己を知るというとは、知る自分と知られる自分とに区別されると同時に、それは同一の自己でなければならないというパラドックスであった。越前の志比の山奥で仏道修行をされた道元禅師は、
- 佛道ヲナラフトイフハ。自己ヲナラフナリ。自己ヲナラフトイフハ。自己ヲワスルルナリ。自己ヲワスルルトイフハ。萬法ニ證セラルルナリ。萬法ニ證セラルルトイフハ。自己ノ身心オヨヒ他己ノ身心ヲシテ脱落セシムルナリ。正法眼藏現成公案
- 仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心およひ他己の身心をして脱落せしむるなり。
と、「自己をわするるといふは、万法に証せらるる」とされ、また自己を他己(他なる己)と表現されたのは秀逸であった。やはり道元禅師もさとりの眼の一分を開かれていたのであろう。