便同弥勒
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王日休の『龍舒増廣淨土文』
この文中の「便同弥勒」が、正定聚の初地不退説をこえて弥勒菩薩と同じ等覚であることを示す引文。なお現在の『大正蔵』の『龍舒浄土文』には「此経 寔往生之径術 脱苦之神方」の部分はない。欄外の註釈文が本文に紛れ込んだものか。
- 我聞。無量壽經。衆生聞是佛名。信心歡喜。乃至一念。願生彼國。即得往生。住不退轉。
- われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。
- 不退轉者。梵語謂之阿惟越致。法華經謂 彌勒菩薩所得報地也。一念往生便同彌勒。
- 不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。
- 一念往生便同彌勒。
- 一念往生、便ち弥勒に同じ。
- 佛語不虚。此経 寔往生之径術 脱苦之神方。應皆信受
- 仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし。(信巻 P.263)
- 紹興壬午閏四月七日 唯心居士荊溪周葵跋
御開山は前記の「便同弥勒」の引文をされた後に、御自釈で、
- まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
- 念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。
と、されておられる。
弥勒菩薩は、五十六億七千年後に竜華樹の下で無上のさとりを開くのであるが、なんまんだぶを称える念仏の我らは、臨終の一念に大般涅槃を超証するのだといわれるのである。
御開山は晩年に、御消息で関東の門弟に盛んにこの如来弥勒等同説を説かれる。摂取不捨の法語の上からは弥勒と同じ徳を受けているのであり、それは如来と等しいとされるのであった。なお、等しいと同じは違う概念であることに留意。ともあれ真実信心の念仏者の尊厳をあらわす語が如来弥勒等同という語なのであった。