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かの国に生まれんとするものは

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2017年11月13日 (月) 15:04時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

 第十一願成就文の「生彼国者」は元来、「かの国に生るれば」と読まれるべきものであるが、親鸞聖人はこれを「かの国に生れんとするもの(者)は」と読みかえて、正定聚がこの世のことであることを示された。(一多 P.680)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

第十一願成就文は、

其有衆生、生彼国者、皆悉住於正定之聚。所以者何。彼仏国中、無諸邪聚及不定聚。
それ衆生ありてかの国に生るれば、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。

と読み、浄土において正定聚不退転の位に入るというのだが、御開山は生彼国者の「者」を助辞の「は」ではなく、「かの国に生れんとする者は」と訓(よ)まれた。つまり、浄土へ生まれようとする者は「みなことごとく正定の聚に住す」とされたのであった。

其有衆生、生彼国者、皆悉住於正定之聚。所以者何。彼仏国中、無諸邪聚及不定聚。
それ衆生あつて、かの国に生れんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり。

と、いわれたのである。ほとんど驚天動地の読み替えなのだが、『観経』の

一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨(一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)(観経 P.102)

の文深義をさぐられて、

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。(御消息 P.735)

と、現生の正定聚を明かされたのであった。→正定聚