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2011年11月26日 (土) 15:37時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

 仏の教法(きょうぼう)を受けて救われるべきもの。一般に衆生(しゅじょう)、人間のこと。またその素質能力を指す場合もある。→根機(こんき)、補註3


 一般に衆生(しゅじょう)、人間のこと。 ここでは韋提希(いだいけ)を指す。 (定善義 P.424)


出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

  • 機微 微かでも法を聞く能力の可能性のあるもの。
  • 機関 仏の法を聞き入れる関係にあるもの。
  • 機宣 仏の法を宜(よろ)しく承るもの。

法華玄義」 機有三義。
一者機是微義。故易云。機者動之微。吉之先現。又阿含云。衆生有善法之機。聖人来応也。衆生有将生之善。此善微微将動。而得爲機。若将生善爲機。此結爲促。今明可生之善。此語則寛。如弩有可発之機。故射者発之。発之則箭動。不発則不前。衆生有可生之善。故聖応則善生。不応則不生。故言機者微也。

二者古注楞伽経云。機是関義。何者。衆生有善有悪。関聖慈悲。故機是関義也。

三者機是宜義。如欲抜無明之苦。正宜於悲。欲与法性之楽。正宜於慈。故機是宜義也。