足の指…
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あしのゆび
不浄な心をもつものには瓦礫にしか見えない世界も、
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『維摩経』では「その心、浄きに随って、すなわち仏土浄し(随其心浄則仏土浄)」という。この意を舎利弗に教える為に、「仏が足の指でもって地を按(仏以足指按地)」じて、この苦悩渦巻く穢土も、釈尊の浄らかな心から観(み)れば浄土であると示される。いわゆる心の持ち方に依って、この世が穢土にもなり浄土にもなるということをいう。
しかし、穢土と浄土という法然聖人の二元論の原則を継承した御開山からみれば、
- しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す。 (信巻p.209)
という自性唯心の立場であろう。ただし、その穢土と浄土の二元論の上に「信心の智慧」によって本願力回向の浄土を感得せられたのが御開山であった。それは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん(諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念)」という、なんまんだぶの名号を聞信するところに開かれるて来る「如-来(如より来生する)」世界であった。
浄土真宗の「信心正因」とは、なんまんだぶと称えることが往生成仏の業因であると信知した者の前に開かれる世界(世開)であった。
- 『維摩経』仏国品
如是寶積。菩薩隨其直心則能發行。
隨其發行則得深心。隨其深心。則意調伏。隨意調伏則如説行。隨如説行則能迴向。隨其迴向則有方便。隨其方便則成就衆生。隨成就衆生則佛土淨。隨佛土淨則説法淨。隨説法淨則智慧淨。隨智慧淨則其心淨。隨其心淨則一切功徳淨。
是故寶積。若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨。
爾時舍利弗。承佛威神作是念。若菩薩心淨則佛土淨者。我世尊本爲菩薩時意豈不淨。而是佛土不淨若此。
佛知其念即告之言。於意云何。日月豈不淨耶。而盲者不見。
對曰不也。世尊。是盲者過非日月咎。
舍利弗。衆生罪故不見如來佛土嚴淨。非如來咎。
舍利弗。我此土淨而汝不見。
爾時螺髻梵王語舍利弗。勿作是意。謂此佛土以爲不淨。所以者何。我見釋迦牟尼佛土清淨。譬
如自在天宮。
舍利弗言。我見此土。丘陵坑坎荊蕀沙礫。土石諸山穢惡充滿。
螺髻梵言。仁者心有高下。不依佛慧故。見此土爲不淨耳。
舍利弗。菩薩於一切衆生。悉皆平等。深心清淨。依佛智慧則能見此佛土清淨。
於是佛以足指按地。即時三千大千世界若干百千珍寶嚴飾。譬如寶莊嚴佛無量功徳寶莊嚴土。
一切大衆歎未曾有。而皆自見坐寶蓮華。
佛告舍利弗。汝且觀是佛土嚴淨。舍利弗言。唯然世尊。本所不見。本所不聞。今佛國土嚴淨悉現。
佛語舍利弗。我佛國土常淨若此。爲欲度斯下劣人故。示是衆惡不淨土耳。
譬如諸天共寶器食隨其福徳飯色有異。
如是舍利弗。若人心淨便見此土功徳莊嚴。
當佛現此國土嚴淨之時。寶積所將五百長者子皆得無生法忍。八萬四千人皆發阿耨多羅三藐三菩提心。
佛攝神足。於是世界還復如故。
求聲聞乘三萬二千天及人。知有爲法皆悉無常。遠塵離垢得法眼淨。
八千比丘不受諸法漏盡意解