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安心論題/十念誓意

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2010年1月5日 (火) 10:55時点における近藤 (トーク | 投稿記録)による版 ((15)十念誓意)

(15)十念誓意


 本願の文には(真聖全一―九)、

至心信楽 欲生我国 乃至十念

等と誓われています。「至心・信楽・欲生」の三心は信心であって、「乃至十念」は称名であります。この信心と称名は、十方の衆生が阿弥陀仏の名号をいただいたすがたであります。しかしながら、浄土真宗にあっては、称名は往生の正因ではなく、信心一つが往生成仏の正因あるとされます。
 それならば、阿弥陀仏はなぜ「乃至十念」の称名をお誓いになったのであろうか。十念を誓われた意をうかがうのが、この「十念誓意」という論題であります。


 「乃至十念」(いまし十念に至る)の意味でありますが、十念の「念」というのは、念仏であります。その念仏についても、七高僧の上には、心に仏のおすがたを念う観念の念仏(観相念仏)と、口に仏の名をとなえる口称の念仏(称名念仏)と、二通りの解釈が見られます。
 龍樹菩薩は「称名」と示されていますが、天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師、それに源信和尚のごときは、観念と口称との両方に通じて示されてあります。けれども、悪人凡夫の修する念仏ということになれば、やはり口称の念仏とされています。
 善導大師は、本願の「十念」は口称念仏であって、観念の念仏ではないとせられ、法然上人はこの善導の釈義によられます。宗祖親鸞聖人は善導・法然両師の釈義を承けて、本願の念仏は口称念仏、すなわち称名であるとされます。
 十念の「十」というのは、『本典』行巻の行一念釈に、道綽禅師の『安楽集』の文を引いて(真聖全二―三五)、

十念相続とは、これ聖者の一つの数の名なくのみ。

と示されています。これは仏(聖者)の説かれた一つの数字であるといわれるので、「十」という数字に特別の意義を認めるのではありません。その「十」というのは、多い方の数が少ない方の数かというと、それは「乃至」の意味にかかわってきますが、結論からいえば比較的少ない方の一つの数であります。したがって、「十念」とはわずか十声の称名という意味になります。
 つぎに「乃至」の意味でありますが、これについて宗祖は次のような四通りの解釈を示されています。
①兼両略中。「浄土文類聚鈔」に(真聖全二―四四四)

経に「乃至」というは、上下を兼ねて中を略するの言なり。

と解釈されています。一番上と一番下との両方を出して、その中間を略する言葉であると仰せられるのです。その出し方に二通りが考えられます。「一念乃至十念」というような場合には、少ない方から多い方に向かう従少向多であり、「千念乃至十念」というような場合には、多い方から少ない方へ向かう従多向少であります。本願の「乃至十念」は従多向少の意味であります。
②乃下合釈。行巻の行一念釈に(真聖全二―三四)、

経に「乃至」といい、釈に「下至」といえり。乃下その言異なりといえども、その意これ一つなり。

 『大経』には「乃至」と説かれ、善導大師の釈には「下至」といわれている。「乃至」と「下至」とは言葉は異なるけれども、意味は異なるけれども、意味は同一であると仰せられるのです。本願の「乃至十念」のことを善導大師は『往生礼讃』の前序に(真聖全二―一九引用)、

かみ一形を尽くし、しも十声・一声に至るまで、

と解釈されています。上は一生涯の多念の称名から、下は十声一声などに至るまで、といわれるのです。したがって、「乃至十念」は、「下はわずか十声の称名まで」という意味であります。
③一多包容。行巻の行一念釈に、前の「乃下合釈」につづいて(真聖全二―三四)、

また「乃至」とは、一多包容の言なり。

と示されています。これは一念も多念も包み容れる言葉であるといわれるので、「乃至」という語を置かれた宗義上の意味をあらわす解釈であります。 ④総摂多少。信巻に本願成就文を解釈されて(真聖全二―七二)、

「乃至」というは、多少を摂するの言なり。

と示され、『一念多念文意』にも本願成就文を解釈されて(真聖全二―六〇五)、

「乃至」は、おおきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねおさむることばなり。

と述べられています。これは多少・久近・前後を皆かね摂めると仰せられるので、これも宗義上の意味をあらわす解釈であります。
 ①兼両略中と②乃下合釈の二つは、「乃至」という語の意味を解釈されたものであり、③一多包容と④総摂多少の二つは、「乃至」という語を添えられた宗義上の意味を顕わされます。この宗義上の意味によれば、「乃至十念」は数の多少、時節の久近を問わない称名、すなわち称えるという私の行為に功を見ない他力の念仏であるということが明らかであります。


 阿弥陀仏の名号が私の心に届いてくださったのが信心であり、それが口業に出てくださるのが称名であります。信心も称名も名号をいただいたすがたですが、往生成仏の正因は信心であって、称名が正因ではありません。そのことは既に⑺「信心正因」の論題でうかがった通りであります。
 もし、称名が正因であるというならば、私の口に称えるという行為によって往生が決定することになりましょう。阿弥陀仏の名号(願力)が私を往生成仏せしめてくださる業因ですから、その名号が私の心に届いてくださった信心のところで往生は決定します。『浄土和讃』の大経讃に、本願のこころを示されて(真聖全二―四九二)、

至心信楽欲生と
十方衆生をすすめてぞ
不思議の誓願あらわして
真実報土の因とする

と讃ぜられています。これはほんがんそのものが、信心正因の思召しで誓われているという旨を示されたものです。
 それならば、本願には信心だけをお出しになればよいのに、なぜ「乃至十念」の称名までお誓いになったのであろうか。阿弥陀仏が「乃至十念」を誓われた思召しをうかがうのが、この論題のテーマであります。


 本願に、三心の信心のほかに、更に「乃至十念」の称名をお誓いくだされた思召しは、古来、信相続の易行をあらわすのである、といわれます。
 信相続の易行をあらわすというのは、本願の信心は必ず生涯にわたって相続の称名として現れること、しかもその相続の行は誰でも、いつでも、どこでも、きわめて行じやすいものであるということであります。宗祖は『尊号真像銘文』に(真聖全二―五六〇)、

「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、「乃至」のみことを「十念」のみなにそえてちかいたまえるなり。如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしと。

と仰せられています。また『一念多念文意』には(真聖全二―六一二)、

本願の文に、「乃至十念」とちかいたまえり。すでに「十念」とちかいたまえるにてしるべし、一念にかぎらずということを。いわんや「乃至」と誓いたまえり、称名の遍数さだまらずということを。この誓願はすなわち易往易行のみちをあらわし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたもうなり。

と述べられています。信心獲得の上からは、数の多少や時節問わない、きわめて行じ易い称名念仏を相続させようとお誓いくだされているので、それは阿弥陀仏のきままりないお慈悲であると仰せられるのです。
 このきわめて行じ易いということを更にうかがいますと、善導大師の『散善義』三心釈には(真聖全二―五四引用)、

行住坐臥、時節の久近を問わず、

と仰せられ、源信和尚の『往生要集』大文第八念仏証拠門には(真聖全一―八八一)、

行住坐臥をえらばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず。

と仰せられています。存覚師の『破邪顕正鈔』にも(真聖全三―一六九)、

いたりてつたなき一文不通のあま入道等は、『阿弥陀経』を読誦することもはなはだかたく『六字礼讃』を勤行することもかないがたし……このゆえに祖師親鸞聖人、もとより下根の衆生をさきとしておこしたまえる本願の意趣をしりて、こころを四種の助業(五正行の中の前三後一、読誦・観察・礼拝・讃嘆供養)にかくべからず、行を第四の正業(称名)にもっぱらにすべきよし、これをすすめらるるこころなり。これ如来の本誓にそむくべからず。

等と述べられています。
 これを要するに、本願の誓いは名号を信じさせ、その信心を誰でもいつでもどこでも行じやすい称名行として相続させようという思召しで、三心のほかに「乃至十念」をお誓いくだされたものである、とうかがわれます。
 いいかえますと、阿弥陀仏は私の心に信心の喜びを与えてくださるばかりでなく、更に、私の寿命のある限りは称名念仏の声として、私の生活の中にいつでもどこでもあらわれましょうというお慈悲から「乃至十念」の称名をお誓いくだされたものであると味わわれます。


 「乃至十念」の称名は、その体徳からいえば、名号の全現ですから一声一声が正定業(まさしく往生の決定する業因)であります。しかし、これを称える行者の用心をいえば、ご恩尊や有難やと感謝する思いから称える報恩の念仏であります。けれども、これを誓われた阿弥陀仏の思召しは、報恩を求めるためではありません。信心の行者の生活の中に、嬉しい時も悲しい時も、何ともない時でも、折にふれて思い出しては仏のみ名を称えさせてくださるのであります。まことに「大慈大悲のきわまりなきこと」を感佩せずにはおれません。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p168~