安心論題/帰命義趣
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(9)帰命義趣
一
「帰命」といえば、仏や菩薩に対して、私どもが敬虔な心情をもって何か助力加護を請い求めることである、というふうに一般的には考えられています。
しかし、浄土真宗にあって、阿弥陀仏に帰命するというのは、私の方から仏に向かってお助けを請い求めることではありません。阿弥陀仏の方からの救いのよぶかけを受けて喜ばせていただくことであります。
かつて、願生帰命という説を主張した学者がありました。それは、その当時あった無帰命安心の誤りをただすためであったといわれています。
「無帰命安心」というのは、阿弥陀仏は私どもを救わねば仏にならぬとお誓いくだされ、すでに十劫のむかし仏となられたのだから、私どもはすでに救われているのである。だが、それを知らなかったために今まで迷うていたので、そのことを知りさえすればそれでよい。いまさら阿弥陀仏に帰命するなどということは無用である、という説である。これは阿弥陀仏のお救いを観念的にとらえ、いま法を聞いて信心決定させていただくということを無視した誤った主張であります。
これに対して、十劫のむかしに本願は成就されているけれども、いま私が往生を願わなければ往生はできない。その往生を願うことが帰命であると説いたのが「願生帰命」の説であります。さらに、身に阿弥陀仏を礼拝し、口に阿弥陀仏の名を称え、意に阿弥陀仏たすけたまえと願うというふうに、身口意の三業にかけて帰命せねばならないと主張したので、「三業帰命説」ともいわれます。この説の是非をめぐって、宗意安心の上に大きな混乱を生じましたので、これを「三業惑乱」といわれます。
無帰命安心の説が誤りであることは申すまでもありませんが、願生帰命説もまた正しいとはいえないと思われます。そこで、浄土真宗における「帰命」の意義趣旨はどのようであるかをうかがうのが、この論題であります。
二
帰命というのは、梵語「南无」の訳語であって、南无は帰命と訳されるほか、帰敬・敬礼・信従などとも漢訳されています。その帰命という漢語について、仏教ではおおむね次のような三通りの解釈をされています。
①趣向性命。「帰」は帰向・趣向の義、「命」は性命の義で、己の最も大切な生命をかけて仏に帰向し、仏の加護・助力を請い求めること。
②敬順教命。「帰」は帰順・敬順の義、「命」は教命の義で、仏の教命に帰順すること。
③還源。「帰」は帰還の義、「命」は迷いの命のことで、迷いの命をひるがえして真如の本源に帰ること。
(①②は賢首の『起信論義記』、③は元暁の『起信論疏』の意による)
往生浄土門の中にあっても、右と同様に、
㋑帰投身命。命がけで阿弥陀仏に帰向して、度我救我(われを度したまえ、われを救いたまえ)と、仏の救済を請い求めること。
㋺帰順教命。阿弥陀仏の仰せに信順すること。
㋩帰還命根。迷いの命をひるがえして悟りの本源に帰ること。
以上、三通りの解釈があって、浄土宗ではいずれの義も用いられますが、鎮西派は帰投身命の義を主とするのがその特色であり、西山派は帰還命根の義に重きを置くのがその特色であります。
浄土真宗にあっては、「帰命」は帰順勅命(帰順教命)の義として解釈されるのあって、帰投身命や帰還命根というような義は用いられていません。これはただ如来の願力を信受することによって救われるとういご法義として当然でありましょう。
三
宗祖聖人は『尊号真像銘文』に、天親菩薩の『浄土論』の文を解釈されて(真聖全二―五六四)、
「帰命尽十方无㝵光如来」ともうすは、「帰命」は南无なり。帰命ともうすは如来の勅命にしたがいたてまつるなり。
と仰せられ、同じく『銘文』に、善導大師の『玄義分』の六字釈の文を解釈されるところには(真聖全二―五六七)、
「言南无者」というは、南无はすなわち帰命ともうすことなり。帰命はすなわち釈迦弥陀の二尊の勅命にしたがい、めしにかなうともうすことばなり。このゆえに「則是帰命」とのたまえり。
と示されています。
『浄土論』の偈文(真聖全一―二六九)には、「世尊我一心 帰命尽十方 尽十方无㝵光如来 願生安楽国」とあります。この「一心帰命」は、『本典』信巻の三心一心の問答に信楽一心とされていることは、すでに「三心一心」という論題でうかがった通りであって、これを『尊号真像銘文』では前記の通り、「如来の勅命にしたがいたてまつるなり」と仰せられるのであります。
また『玄義分』の六字釈の「言南无者、即世帰命、亦是発願廻向之義」等(真聖全一―四五七)とある「帰命」については、同じく善導大師の『散善義』の三心釈に示された二河白道の譬喩の合法(法義に合わせて示す)のところに(真聖全二―五七引用)
仰いで釈迦発遣して、おしえて西方に向かえたもうことをこうむり、また弥陀の悲心招喚したもうによって、いま二尊の意に信順して、水火の二河をかえりみず、念念にわするることなく、かの願力の道に乗じて……。
等と示されています。この意味によって、宗祖は『尊号真像銘文』に、前記の通り「帰命はすなわち釈迦弥陀の二尊の勅命にしたがい、めしにかなうともうすことばなり」と仰せられるのであります。
このように、阿弥陀仏に帰命するというのは、阿弥陀仏の招き喚んでくださる勅命にしたがうことであり、本願に信順することであり、願力の道に乗託することであって、本願の信楽と同じ意味であるとされています。
四
宗祖は右に述べたように、「帰命」を帰順勅命の義――この場合は「命に帰す」とよむ意――として解釈されますが、さらに宗祖独特の解釈として、「帰命」を「帰せよの命」とよむ意味で、仏の側のおん働きを示す解釈を示されています。それは『本典』行巻の六字釈における「帰命」の釈であります。(真聖全二―二二)。
しかれば南无の言は帰命なり。「帰」の言は至なり、また帰悦なり……また帰税なり。……「命」の言は業なり、招引なり……召すなり。ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。
と。このおん釈によれば、帰命とは、よりかかれよ、よりたのめよと私どもを招き喚んでくださる阿弥陀仏の呼び声である。と仰せれれています。これは、私どもに信を命じつつあるのが名号大行である、という意味をあらわされるのであります。
そのほか、「帰命」を礼拝の義とす解釈もあります。それは『往生論註』に(真聖全二―一四引用)、
「帰命尽十方无㝵光如来」とは、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり。
等と示されています。これは『浄土論』の偈頌を解釈されるについて、同じく『浄土論』の長行(散文の部分)に示されてある五念門を対配して解釈されますので、偈頌には「観彼世界相」以下に観察門の行が出てあり、「我作論説偈」以下に廻向門の行が出ていますが、礼拝・讃嘆・作願の三念門に相当する文はありません。
そこで、初めの一行四句は、天親菩薩がみずからの信心をお述べになった偈文ですが、これを三念門にあてはめて、「帰命」は礼拝門、「尽十方无㝵光如来」は讃嘆門、「願生安楽国」は作願門として解釈されるのであります。この場合、「帰命」は身業の礼拝門の行とされ、龍樹菩薩の『易行品』には、帰命の語を礼拝の意味として用いられた例があるといって、その例をあげていられます。
五
このように見てきますと、浄土真宗にあっては、「帰命」ということは、
⑴帰順勅命。これは「命に帰す」とよむ意で、本願の信楽と同じ。
⑵本願招喚の勅命。これは「帰せよの命」とよむ意で、衆生に信受せよと命じたもう如来のよび声。
⑶礼拝。これは身業に阿弥陀仏を礼拝すること。
この三通りの解釈がありますが、この中で、⑴の阿弥陀仏の勅命に信順すること、すなわち本願の信楽と同じ意味であるという義が、「帰命」の解釈の据わりであります。そして、⑵の如来の勅命とされる解釈は、⑴の衆生の信楽のおこる本をあらわされます。すなわち阿弥陀仏の「帰せよの命」によって、衆生の「命に帰す」という信心はおこさしめられるのである。名号大行が衆生に届いて信心となるのであるという意味をあらわされるのであります。⑶の礼拝の義は、起行の上では身業に礼拝となる旨を示されたものといえましょう。
なお、『玄義分』の帰三宝偈には(真聖全一―四四一)、
世尊、われ一心に、尽十方の法性真如海と報化等の諸仏と……果徳涅槃の者とに帰命したてまつる。われらことごとく、三仏菩提尊に帰命したてまつる。
等とあります。この場合の「帰命」は、ひろく仏法僧の三宝に対する帰敬(恭敬)の意を示されたのであって、弥陀一仏に信順する意をあらわす「帰命」とは異なる用例であります。
以上、これを要するに、浄土真宗において、阿弥陀仏に帰命するというのは、本願招喚の勅命に信順すること、すなわち信楽一心を意味するのであって、衆生の方から仏に向かって、往生させてください、どうかお救いくださいと希願請求する意味ではない、ということに留意すべきであります。
たとえば、車がすでに目の前にあって、「さーお乗りなさい」といわれていれば、「はい有難う」と乗せていただくのが正しい受け止め方でありましょう。それに「どうか迎えに来てください。どうか乗せてくださるようお願いします」と、こちらから請求するのは誤っているといわねばなりません。それと同様であります。
この論題は⑶「信願交際」、⑽「タノム・タスケタマヘ」、⑾「所帰人法」などの論題と関連しています。