浄土真宗
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じょうどしんしゅう
Ⅰ 往生浄土の真実の教え。真実の
Ⅱ 親鸞聖人を宗祖とする教団の宗名に用いられる。本願寺派では浄土真宗という。また大谷派等の各派では真宗と称する。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- オンライン版 仏教辞典より転送
浄土真宗(淨土眞宗)
単に「真宗」ということもある。
親鸞を開山とする教団グループの名前。この名は親鸞の主著教行信証に「一乗究極の教え、浄土門の真実の教え」として名づけられた。ただし、浄土宗などからの反発もあり、1872年(明治5)になって初めて公称された。それまで一般には一向宗と呼ばれた。
インド・中国・日本の三国にわたる七高僧によって伝承されたとして、教行信証 の成立をもって立教開宗とする。その教えは、阿弥陀本願の名号をそのまま信受して、ただちに阿弥陀仏の浄土へ往生することが決定し、そののちは報恩感謝の念仏生活をいとなむものとし、これらはひとえに名号となってはたらく阿弥陀仏の力によるのであって、われわれ凡夫の力ではないとし、絶待他力を強調する。
語義
「浄土真宗」という語は、次のような意味で用いられている。
- 真実の教え。阿弥陀仏の本願を説く無量寿経の教えのこと。
- 選択本願すなわち第十八願。
「浄土宗のなかに真あり仮(け)あり、真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり、選択本願は浄土真宗なり」『末灯鈔』 - 念仏往生。
「浄土真宗のならひには念仏往生とまふすなり」『一念多念文意』 - 信心往生の教え。
「真実信心をうれば実報土にむまるとおしへたまへるを浄土真宗とすとしるべし『唯信鈔文意』 - 往相・還相(げんそう)の廻向(えこう)。
「謹んで浄土真宗を案ずるに二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり」『教行信証(教巻)』
これらは順次に、浄土門の真実の教え、浄土真宗の根源、浄土真宗の伝承、浄土真宗の本質、浄土真宗の原理を示している。親鸞にあっては「浄土真宗」(真宗または浄土宗)とは特定の宗派名ではなくて、阿弥陀仏の浄土に往生する道そのもの、その教えの本質的意味をあらわしている。そして親鸞は師の法然に対して反抗する意識がなかったから、彼の言う「浄土真宗」とは、法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えである。
浄土真宗の系統
このグループにはいくつかの系統がある。
1207年(建永2、承元1)の念仏弾圧のさい、師法然とともに罰せられ、越後(新潟県)に流された親鸞は、許されてのち関東へ移って布教した。
その中から、真仏を中心とする教団が下野(栃木県)高田に起り、高田門徒として専修寺を中心に奥州から東海地方へ教線を広げ、初期真宗教団の主流をなした。一方、親鸞の娘覚信尼は、京へ戻って没した親鸞の遺骨を大谷の地におさめて廟堂を建て、覚如の時に廟堂の寺院化がはかられ、本願寺と称するようになった。
このころ、高田門徒の法脈につながる仏光寺教団の勢力が強く、三代伝持の法脈を主張する覚如の本願寺教団と対立した。
本願寺8世蓮如になって、その精力的な伝道により、本願寺の勢力は盛んとなる。越前(福井県)吉崎を拠点とする蓮如の布教で北陸に広まった本願寺門徒は、農民を中心に戦国領主と対立してしばしば一向一揆を起し、やがてこの対立は戦国武将の争いに本願寺を巻き込んで、織田信長といわゆる石山合戦を繰り広げるに及んだ。
その間、本願寺は寺域を転々と移し、豊臣秀吉の寺領寄進(1591年)によって京都に戻り、徳川家康のとき(1602年)東西の二派に分れて今日に及んでいる。
真宗十派
浄土真宗は、高田門徒の活動から始まって、本願寺教団を中心に歴史を展開させてきたが、そのほか、前述の仏光寺派と、そこから分派して一時本願寺に属した興正派、高田門徒と並ぶ有力門徒であった横曾根門徒の系統を引く木辺派、大町如道を祖として越前三門徒とよばれた山元派・誠照寺派・三門徒派、その三門徒派と深い関係をもった出雲路派があり、これらに高田派・本願寺派(西)・大谷派(東)を加えて、真宗十派という。