楞伽山
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りょうがせん
楞伽は梵語ランカー(Lańkā)の音写。釈尊が『楞伽経』を説かれた場所。 (行巻 P.204, 浄文 P.486)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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楞伽は、一説にスリランカの古名、Laṅkā(ランカー)のことで、『楞伽経』(Laṅkāvatāra Sūtra)は、ここで説かれたともいう。この『楞伽経』巻九で、釈尊が将来の龍樹菩薩の出現を預言されているので「楞伽懸記(りょうが-けんき)」という。
懸記の《懸》は「かける」という意味もあるが、ここでは懸絶、懸隔の意で、遠く隔たった時間、未来のこと。《記》は、「しるす」という意で『楞伽経』に托した、釈尊の預言(予言という、ある事についてその実現に先立って予測するという意味ではなく、あらかじめ言(ことば)を措定しておくという意)をいう。仏教の教理史的には龍樹(150-250頃)以後に釈尊に仮託された経典であり、シナでは初期禅宗や浄土教において重視された経典である。
なお、『楞伽経』には、『楞伽阿跋多羅宝経』 求那跋陀羅訳、『入楞伽経』 菩提流支訳、大乗入楞伽経』 実叉難陀訳の三種の訳がある。
御開山は、和語の和讃では、
(2) 南天竺に比丘あらん
- 龍樹菩薩となづくべし
- 有無の邪見を破すべしと
- 世尊はかねてときたまふ
と、あるとかないという、有見と無見の「有無の邪見」を破した龍樹菩薩を讃嘆し、
(3) 本師龍樹菩薩は
- 大乗無上の法をとき
- 歓喜地を証してぞ
- ひとへに念仏すすめける
と、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」、歓喜地である正定聚を明かされたのである。
- 『入楞伽経』菩提流支訳
我乗内証智 妄覚非境界
- わが乗、内証の智は妄覚の境界にあらず
如来滅世後 誰持為我説
- 如来滅世の後、誰か持(たも)ちてわが為に説かん。
如来滅度後 未来当有人
- 如来滅度の後、未来に当に人あるべし
大慧汝諦聴 有人持我法
- 大慧、汝あきらかに聴け、人ありて我が法を持たん。
於南大国中 有大徳比丘
- 南大国中に、大徳の比丘ありて
名龍樹菩薩 能破有無見
- 龍樹菩薩と名づく。よく有無の見を破し
為人説我法 大乗無上法
- 人の為に、我が大乗無上の法を説き
証得歓喜地 往生安楽国
- 歓喜地を証し、安楽国に往生するを得ん。
- 『漢語灯録』所収の法然聖人の『小経釈』
この中で、『阿弥陀経』の「衆生生者皆是阿鞞跋致。其中多有一生補処(衆生生ずるものはみなこれ阿鞞跋致なり。 そのなかに多く一生補処〔の菩薩〕あり。その数はなはだ多し)」の一生補処を釈して、華厳、三論、法相等の諸宗も真実の証果は極楽に往生して得られるとあかし、八宗の祖である龍樹菩薩も、歓喜地を証して極楽界に往生されたという意を『楞伽経』を引用して証明しておられる。
歓喜地とは『十住毘婆沙論』で説く阿惟越致の境地であり、御開山が本願を聞信し、選択本願の、なんまんだぶを称える者は正定聚であるとされた淵源は法然聖人にあったのであろう。
又楞伽經説云
- また楞伽経に云ふ。
於南天國中有大德比丘。名龍樹菩薩。
- 南天国中に大徳の比丘あり、龍樹菩薩と名づく。
能破有無見 爲人説我乘大乘無上法
- よく有無の見を破し、人の為に我が乗の大乗無上の法を説き、
證得歡喜地 往生安樂國
- 歓喜地を証し、安楽国に往生するを得ん。
乃依此文龍樹菩薩 亦已往生在極樂界
- すなわちこの文に依って、龍樹菩薩も、また往生しおわりて、極楽界に在(いま)す。
龍樹菩薩已是天台三論及眞言祖師也
- 龍樹菩薩はすでにこれ、天台三論および真言の祖師なり。
若欲廣學顯密兩敎者
- もし、広く顕密両教を学せんと欲せば、
應當發願往生極樂也
- まさに、発願して極楽に往生すべし。漢語灯録巻三