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<b>11 <ruby><rb>大信</rb><rp>(</rp><rt>だいしん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>真実信</rb><rp>(</rp><rt>しんじつしん</rt><rp>)</rp></ruby></b>
 
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 大信とは、阿弥陀如来よりたまわった信心の徳をたたえた言葉である。信心とは<ruby><rb>信楽</rb><rp>(</rp><rt>しんぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願の<ruby><rb>名号</rb><rp>(</rp><rt>みょうごう</rt><rp>)</rp></ruby>を領受した心をいう。それは<ruby><rb>大行</rb><rp>(</rp><rt>だいぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>たる名号のはたらきが<ruby><rb>衆生</rb><rp>(</rp><rt>しゅじょう</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>正</rb><rp>(</rp><rt>まさ</rt><rp>)</rp></ruby>しく至り届いたすがたである。この信心は、「如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の<ruby><rb>正定</rb><rp>(</rp><rt>しょうじょう</rt><rp>)</rp></ruby>の因となる」(<ruby><rb>信巻</rb><rp>(</rp><rt>しんかn</rt><rp>)</rp></ruby>・本)といわれている。これを信心<ruby><rb>正因</rb><rp>(</rp><rt>しょういん</rt><rp>)</rp></ruby>という。すなわち如来<ruby><rb>回向</rb><rp>(</rp><rt>えこう</rt><rp>)</rp></ruby>の信心は<ruby><rb>真如</rb><rp>(</rp><rt>しんにょ</rt><rp>)</rp></ruby>にかない、無量の徳をもち、衆生を<ruby><rb>涅槃</rb><rp>(</rp><rt>ねはん</rt><rp>)</rp></ruby>のさとりに至らしめるすぐれた徳をもっているから大信心といわれ、また真実信といわれるのである。
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 大信とは、阿弥陀如来よりたまわった信心の徳をたたえた言葉である。信心とは<ruby><rb>信楽</rb><rp>(</rp><rt>しんぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願の<ruby><rb>名号</rb><rp>(</rp><rt>みょうごう</rt><rp>)</rp></ruby>を領受した心をいう。それは<ruby><rb>大行</rb><rp>(</rp><rt>だいぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>たる名号のはたらきが<ruby><rb>衆生</rb><rp>(</rp><rt>しゅじょう</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>正</rb><rp>(</rp><rt>まさ</rt><rp>)</rp></ruby>しく至り届いたすがたである。この信心は、「如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の<ruby><rb>正定</rb><rp>(</rp><rt>しょうじょう</rt><rp>)</rp></ruby>の因となる」(<ruby><rb>信巻</rb><rp>(</rp><rt>しんかん</rt><rp>)</rp></ruby>・本)といわれている。これを信心<ruby><rb>正因</rb><rp>(</rp><rt>しょういん</rt><rp>)</rp></ruby>という。すなわち如来<ruby><rb>回向</rb><rp>(</rp><rt>えこう</rt><rp>)</rp></ruby>の信心は<ruby><rb>真如</rb><rp>(</rp><rt>しんにょ</rt><rp>)</rp></ruby>にかない、無量の徳をもち、衆生を<ruby><rb>涅槃</rb><rp>(</rp><rt>ねはん</rt><rp>)</rp></ruby>のさとりに至らしめるすぐれた徳をもっているから大信心といわれ、また真実信といわれるのである。
  
 
 「信巻」の冒頭には、「至心信楽の願」と第十八願がかかげられている。その願文には、至心・信楽・<ruby><rb>欲生</rb><rp>(</rp><rt>よくしょう</rt><rp>)</rp></ruby>という<ruby><rb>三心</rb><rp>(</rp><rt>さんしん</rt><rp>)</rp></ruby>が示されるが、<ruby><rb>天親</rb><rp>(</rp><rt>てんじん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>菩薩</rb><rp>(</rp><rt>ぼさつ</rt><rp>)</rp></ruby>は、本願の三心が疑いなく名号を信受する信楽の一心のほかにないことをあらわすために、『<ruby><rb>浄土論</rb><rp>(</rp><rt>じょうどろん</rt><rp>)</rp></ruby>』に「一心」と示されたといわれている。すなわち至心とは、真実の心という意味であり、これは信楽(信心)の体徳である。つまり衆生の信心は、阿弥陀仏の真実の心を体徳としているということである。欲生とは、阿弥陀仏が衆生を浄土に生れさせようと願いたもう大悲心であり、また衆生にとっては、必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると浄土を<ruby><rb>期</rb><rp>(</rp><rt>ご</rt><rp>)</rp></ruby>する心である。これは阿弥陀仏の本願を疑いなく信受した信楽のもついわれを別開したもので、信楽のほかにはない。このように至心も欲生も信楽の一心におさまることを「三心即一」といい、三心と誓われているが、本願の名号のいわれを領受するのは信楽一心のほかにないことがわかる。この信心は、阿弥陀仏の本願<ruby><rb>招喚</rb><rp>(</rp><rt>しょうかん</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>勅命</rb><rp>(</rp><rt>ちょくめい</rt><rp>)</rp></ruby>(衆生を招き喚ぶ声)に帰順する(したがう)心であるからこれを<ruby><rb>帰命</rb><rp>(</rp><rt>きみょう</rt><rp>)</rp></ruby>ともいうのである。
 
 「信巻」の冒頭には、「至心信楽の願」と第十八願がかかげられている。その願文には、至心・信楽・<ruby><rb>欲生</rb><rp>(</rp><rt>よくしょう</rt><rp>)</rp></ruby>という<ruby><rb>三心</rb><rp>(</rp><rt>さんしん</rt><rp>)</rp></ruby>が示されるが、<ruby><rb>天親</rb><rp>(</rp><rt>てんじん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>菩薩</rb><rp>(</rp><rt>ぼさつ</rt><rp>)</rp></ruby>は、本願の三心が疑いなく名号を信受する信楽の一心のほかにないことをあらわすために、『<ruby><rb>浄土論</rb><rp>(</rp><rt>じょうどろん</rt><rp>)</rp></ruby>』に「一心」と示されたといわれている。すなわち至心とは、真実の心という意味であり、これは信楽(信心)の体徳である。つまり衆生の信心は、阿弥陀仏の真実の心を体徳としているということである。欲生とは、阿弥陀仏が衆生を浄土に生れさせようと願いたもう大悲心であり、また衆生にとっては、必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると浄土を<ruby><rb>期</rb><rp>(</rp><rt>ご</rt><rp>)</rp></ruby>する心である。これは阿弥陀仏の本願を疑いなく信受した信楽のもついわれを別開したもので、信楽のほかにはない。このように至心も欲生も信楽の一心におさまることを「三心即一」といい、三心と誓われているが、本願の名号のいわれを領受するのは信楽一心のほかにないことがわかる。この信心は、阿弥陀仏の本願<ruby><rb>招喚</rb><rp>(</rp><rt>しょうかん</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>勅命</rb><rp>(</rp><rt>ちょくめい</rt><rp>)</rp></ruby>(衆生を招き喚ぶ声)に帰順する(したがう)心であるからこれを<ruby><rb>帰命</rb><rp>(</rp><rt>きみょう</rt><rp>)</rp></ruby>ともいうのである。

2005年10月16日 (日) 21:00時点における版

11 大信(だいしん)真実信(しんじつしん)

 大信とは、阿弥陀如来よりたまわった信心の徳をたたえた言葉である。信心とは信楽(しんぎょう)ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願の名号(みょうごう)を領受した心をいう。それは大行(だいぎょう)たる名号のはたらきが衆生(しゅじょう)(まさ)しく至り届いたすがたである。この信心は、「如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定(しょうじょう)の因となる」(信巻(しんかん)・本)といわれている。これを信心正因(しょういん)という。すなわち如来回向(えこう)の信心は真如(しんにょ)にかない、無量の徳をもち、衆生を涅槃(ねはん)のさとりに至らしめるすぐれた徳をもっているから大信心といわれ、また真実信といわれるのである。

 「信巻」の冒頭には、「至心信楽の願」と第十八願がかかげられている。その願文には、至心・信楽・欲生(よくしょう)という三心(さんしん)が示されるが、天親(てんじん)菩薩(ぼさつ)は、本願の三心が疑いなく名号を信受する信楽の一心のほかにないことをあらわすために、『浄土論(じょうどろん)』に「一心」と示されたといわれている。すなわち至心とは、真実の心という意味であり、これは信楽(信心)の体徳である。つまり衆生の信心は、阿弥陀仏の真実の心を体徳としているということである。欲生とは、阿弥陀仏が衆生を浄土に生れさせようと願いたもう大悲心であり、また衆生にとっては、必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると浄土を()する心である。これは阿弥陀仏の本願を疑いなく信受した信楽のもついわれを別開したもので、信楽のほかにはない。このように至心も欲生も信楽の一心におさまることを「三心即一」といい、三心と誓われているが、本願の名号のいわれを領受するのは信楽一心のほかにないことがわかる。この信心は、阿弥陀仏の本願招喚(しょうかん)勅命(ちょくめい)(衆生を招き喚ぶ声)に帰順する(したがう)心であるからこれを帰命(きみょう)ともいうのである。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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