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===第七節 三学無分の自覚=== | ===第七節 三学無分の自覚=== | ||
2024年11月22日 (金) 17:15時点における版
梯實圓和上の『法然教学の研究』から、法然聖人の回心の状況を『徹選択集』から引用。読み下し文、リンク、文字の修飾は林遊が追記した。
法然聖人の回心
第七節 三学無分の自覚
聖光房弁長は『徹選択集』上(浄全七・九五頁)(*)に、法然からその回心の模様を次のように聞いたと記している。
出離之志至深之間、信諸教法修諸行業。凡仏教雖多所詮不過戒定慧之三学。所謂小乗之戒定慧、大乗之戒定慧、顕教之戒定慧、密教之戒定慧也。然我此身於戒行不持一戒、於禅定一不得之、於智慧不得断惑証果之正智。……悲哉悲哉、為何為何、爰如予者已非戒定慧三学之器、此三学外有相応我心之法門耶、有堪能此身之修行耶、求万人之智者、訪一切之学者、無教之人無示之倫。然間歎歎入経蔵、悲悲向聖教、手自披之見之、善導和尚観経疏云一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。文見得之後、如我等無智之身、偏仰此文専憑此理、修念念不捨之称名、備決定往生之業因、非啻信善導之遺教、亦厚順弥陀之弘願、順彼仏願之文染神留心耳
出離の志、至りて深きの間、諸の教法を信じて諸の行業を修す。おおよそ仏教多しといえども所詮は戒定慧の三学に過ぎず。いわゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧なり。しかるに我がこの身には戒行において一戒をもたもたず。禅定において一つもこれを得ず、智慧において断惑証果の正智を得ず。……悲きかな悲しきかな、いかがせん、いかにせん。ここに予がごとき者、すでに戒定慧三学の器に非ず、この三学の外に我が心に相応する法門ありや、よくこの身に堪えるの修行ありや、万人の智者に求め一切の学者を訪へども、これを教ゆる人無くこれを示す倫(ともがら)無し。
この聖光の所伝と、さきにあげた醍醐本『法然上人伝記』(*)等の記録とを照応すると、法然は『往生要集』を先達として『観経疏』に行きつかれたわけだが、そのときすでに問題は「三学の
それにしても円頓戒の正統をついだ戒師として、その持戒堅固な清僧ぶりが、多くの人に評価されていた法然が「戒行においては一戒をもたもたず」といい、「智慧第一の法然房」とたたえられていながら「愚痴の法然房」と自称されたのは何故であろうか。それは現実に破戒されたからではなかっただろう。むしろ厳格な戒律によって自己を律していこうとすればするほど、肉体の底から湧きおこる反戒律的な愛欲と憎悪の煩悩のはげしい衝動を実感されたからであろう。戒律は煩悩を制御するためのわくであるが、煩悩の野性は、常に戒律のわくを破って奔放しようとする強烈な力をもって突出してくる。それは懴悔法によって浄化できるような生やさしい存在ではなくて、まさに煩悩具足の野性そのものであり、無戒の自己であった。だから形式的に戒を持(たも)っていることは、常に破戒の危機にさらされていることであり、厳密な意味では「一戒もたもちえず」といわざるを得なかったのである。また一切経を読破して、各宗の教理や実践法を理解し、多くの仏教についての知識をもっていたとしても、それが「生死解脱の正智」でないかぎり、自身の生死については何事も知らないに等しい。「黒白もわきまえぬ」「一文不知」のしらじらとした一箇の凡愚が息づいているに過ぎない自身に気づいたとき、まさに愚痴の身としかいいえなかったのである。こうして自己の存在の底に、ずっしりと居すわる手のつけようのない無戒、無智の自身にかえるとき、三学の器にあらざる、その意味で行証のかけた末法的存在とは、何よりも自己自身であることを思い知るのである。末法とは自己をとりまく歴史的、環境的な状況であるに止まらず、自己自身の三学無分という存在状況を意味しているとすれば、末法を救う教法は、正確にはかかる自己を根源的に救う教法でなければならない。
ところで法然は「仏教多しと雖も所詮は戒定慧の三学に過ぎず」といわれているが、仏教を最も基本的な実践徳目である三学として把握していかれたところに、法然の関心が常に実践に向けられていたことと、さきにのべた『末法灯明記』(*)の影響をみることができよう。三学とは、煩悩を制御し、生活を浄化するために戒律を遵守することと、禅定の実践によって身心の安定と統一をおこなうことと、教理にしたがって真実を体解する智慧を開いて、生死を解脱することをいうが、それは八正道、六波羅蜜、円頓止観、三密加持等、すべての仏道修行に通じていた。小乗、大乗、顕教、密教と複雑に展開していった仏教教学も、その実践の基本構造は戒定慧に帰するとすれば、三学とは仏道そのものであった。従って三学の器にあらざるものとは、仏道によって救われないものということになり、彼に対しては仏教はもはや教法としての意味を失ってしまう。すなわち三学無分の機にとっては、末法というよりもむしろ法滅というべきであろう。法滅百歳の機[1]とは、遠い未来の人をさすのではなくて、無戒、愚痴の自身がそれなのである。後に成立する法然教学が、選択、廃立という厳しい選びの宗教であるのも、こうした無戒、愚痴の凡夫性をふまえて立っているからである。すなわち一切の自力を捨てるのは、一切の自力の教行に見捨てられている自己の確認であり、かかる身を見捨てたまうことなく摂取し、安住の処を得しめたまう本願への帰入をあらわしているのが廃立の宗義だったのである。
すでにのべたように、三学が仏教であるならば、三学無分の機が救われる教法は、常識的な意味での仏教ではないことになる。最澄(七六六(七)-八二二)は『顕戒論』(伝教全一・一九七頁)のなかで、円頓戒を独立するのは「円頓の戒定慧」、すなわち「円宗の三学」を本朝に永く伝持せんがためであるといわれている。従って三学は無効であるとして、三学外の仏教を求めることは、明らかに天台宗の伝統に背く異端児となっていくことであった。
にもかかわらず法然が公然とそれを問題とし得たのは、さきにのべた最澄作と伝えられる『末法灯明記』が強い精神的支柱となっていたからであろう。宮井義雄氏も法然の浄土教の独立は『末法灯明記』を媒介として前進したものであるといわれている。[2]