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「願行具足」の版間の差分

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願行具足とは、善導大師の六字釈の[[称名]]には願と行が具足していること。
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[[願行具足]]とは、[[善導大師]]の[[六字釈]]の、[[称名]]には衆生の願と行が具足していること。
 
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六字釈
 
六字釈
:いまこの『観経』のなかの{{DotUL|十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す}}。 いかんが具足する。
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:いまこの『観経』のなかの{{DotUL|十声の称仏は、すなはち'''十願十行'''ありて具足す}}。 いかんが具足する。
 
:「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。([[観経疏 玄義分 (七祖)#六字釈|玄義分 P.325]])
 
:「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。([[観経疏 玄義分 (七祖)#六字釈|玄義分 P.325]])
 
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2024年11月17日 (日) 10:51時点における版

がんぎょう-ぐそく

 浄土往生の因となる願と行業(ぎょうごう)とが(そな)わりととのうこと。(安心決定 P.1386)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

願行具足とは、善導大師六字釈の、称名には衆生の願と行が具足していること。

六字釈

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。(玄義分 P.325)
六字釈
別時意会通
を称念し

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:を称念し

梯實圓和上の講録から。

 一般に『安心論題』等か見ますと信心は願行具足(がんぎょう-ぐそく)の名号を頂いたという風な言い方をします。願行具足論は宗祖は余り使わないのです。余りではなくて「願行」という言葉を一回だけ使われておられますが、次には(ただち)に止めてしまわれるのです。だからあの言葉はあまり親鸞聖人は使わない。『尊号真像銘文』の略本の「帰命尽十方無碍光如来」の釈の所に「無碍光仏の願行を信じて」(略本 618) という言葉が一ヶ所だけあるのです。しかし広本の時はそれはもう省略します。切ってしまいます。「願行を信ず」という願行という言葉を止めてしまうのです。この「阿弥陀仏の願行を信ずる」という形で宗祖は一回だけ使ったのだけれども、どうもそぐわないのでしょう。親鸞聖人の境地に合わなかったのでしょう。それで止めてしまうのです。何故に止められたのでしょうか?。一度使われて直に止めるというのは面白いです。だから「六字釈」を見たら願行門の六字釈は一切使わない。六字釈は二回ありますけれども願行具足という事を一回も言われない。だから宗祖は願行具足論というもので成仏の因を語るという事はなかった訳です。もっと根源的に如来の智慧と慈悲、如来の大智・大悲で仏道の正因を語るのです。これはやはり親鸞聖人の大乗仏教観というようなものが背景にあるのです。恐らく信心正因という事を言うのは菩提心正因というものを押さえている訳です。