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「二種回向」の版間の差分

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:ゆゑに『十疑』にいはく、「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。
 
:ゆゑに『十疑』にいはく、「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。
  
:知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。([[往生要集上巻 (七祖)#10gi|要集 P.929]])
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知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。([[往生要集上巻 (七祖)#10gi|要集 P.929]])
 
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と、衆生済度の力を得るために浄土に往生するのだと示していた。これが御開山の示される'''[[往相]]'''と'''[[還相]]'''の二種回向の意であろう。
 
と、衆生済度の力を得るために浄土に往生するのだと示していた。これが御開山の示される'''[[往相]]'''と'''[[還相]]'''の二種回向の意であろう。

2024年10月8日 (火) 05:36時点における版

にしゅ の えこう

 往相回向(おうそうえこう)還相回向(げんそうえこう)。 →往相回向還相回向  (正像 P.604,消息 P.780,御文章 P.1172 )

本願力回向の二種の相

にしゅ-えこう

往相回向還相回向のこと。往相とは往生浄土の相状。還相とは還来穢国(げんらい-えこく)の相状という意。曇鸞は『論註』(論註 P.107)においてこれらの回向を浄土願生者の行とし、往相回向とは自己の功徳を一切衆生にふりむけて自他ともに往生しようとすること、還相回向とは浄土に往生してのち、再び迷いの世界に還り来て、衆生を教化することとした。
親鸞はこれらの回向を本願力回向であるとして、回向の主体を阿弥陀仏であるとした。
衆生が往生成仏する因果である往相も、証果を開いて後の還相のはたらきも、阿弥陀仏が衆生に施し与えるものとする。親鸞は往相回向教・行・信・証四法として明かし、その証の内容として還相回向されることを示した。
「教巻」に、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教巻 P.135)

「証巻」に。

還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。(証巻 P.313)

とある。→四法(浄土真宗辞典)

御開山は「教巻」で、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。 (教巻 P.135)

と、浄土真宗という宗義であらわし、『浄土文類聚鈔』では、

しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。 (浄文 P.478)

法義二種回向という本願力回向を示しておられた。
つまり浄土真宗とは本願力回向の宗旨であった。 この本願力に拠って回向される二種回向とは、『論註』に説く「願作仏心」(往相)と「度衆生心」(還相)を二双四重による「横超の菩提心」により往相願作仏心)、還相度衆生心)とされたのが二種回向であった。
御開山は引文されておられないのだが源信僧都は、

ゆゑに『十疑』にいはく、「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。

知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。(要集 P.929)

と、衆生済度の力を得るために浄土に往生するのだと示していた。これが御開山の示される往相還相の二種回向の意であろう。

「証巻」を総決して、

還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。 (証巻 P.335)

と、還相は利他の正意であるとされ、他利利他の深義を感佩されておられる。

往相
還相
願作仏心
度衆生心
往相回向
還相回向
他利利他の深義
常倫に…現前し

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:往相回向・還相回向

おうそうえこう・げんそうえこう/往相回向・還相回向

自己の功徳を他の人に振り向けてともに浄土に生まれようと願うことを往相回向といい、浄土往生した者が再びこの穢土(迷いの世界)に還ってきて、人々を教導し共に浄土へ向かうことを還相回向という。往相と還相とは対語。曇鸞は『往生論註』で「回向に二種の相有り。一は往相、二は還相。往相とは己が功徳を以て一切の衆生に回施して、共に彼の阿弥陀如来安楽浄土往生せんと作願するなり。還相とは彼の土に生じおわって、奢摩他しゃまた毘婆舎那びばしゃなを得て、方便力を成就しぬれば、生死稠林ちゅうりんに回入し、一切の衆生教化して共に仏道に向かう」(浄全一・二三九下~四〇上)という。善導が『観経疏散善義の回向発願心釈で二河白道譬喩によって、浄土往生するための回向を説き明かすのは往相回向であるが、その説示の終わりの部分で「回向と言うは、かの国に生じ已って、還って大悲を起こし、生死に回入して衆生教化するを、また回向と名づく」(聖典二・二九九~三〇〇/浄全二・六〇下~一上)と述べ、また、『往生礼讃日没発願文で「彼の国に到り已って六神通を得て十方界に入りて苦の衆生を救摂せん」(浄全四・三六〇上)といっているのが還相回向である。法然は『御消息』において「まず我が身につきて、さきの世及びこの世に身にも口にもこころにも造りたらん功徳、みなことごとく極楽回向して往生を願うなり。次には我が身の功徳のみならず異人のなしたらん功徳をも、仏菩薩のつくらせたまいたらん功徳をも随喜すればみな我が功徳となるをもて、ことごとく極楽回向して往生を願うなり」(聖典四・五四〇/昭法全五八三)と語り、一方で『一百四十五箇条問答』で「極楽へ一度生まれそうらいぬれば永くこの世に還る事そうらわず。みな仏に成る事にてそうろうなり。ただし人を導かんためには故に還る事もそうろう。されども生死めぐる人にてはそうらわず」というが、結論は「三界を離れ極楽往生するには念仏に過ぎたる事はそうらわぬなり。よくよく御念仏のそうろうべきなり」(聖典四・四五六/昭法全六五二)なのである。ちなみに、真宗においては、回向の主体を阿弥陀仏のみと捉えるため、衆生による回向は説かない。


【参考】藤吉慈海「往相と還相」(『浄土宗学研究』一一、知恩院浄土宗学研究所、一九七八)


【参照項目】➡回向


【執筆者:藤本淨彦】