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「荘子」の版間の差分

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曰「鑿木為機,後重前輕,挈水若抽,數如泆湯,其名為槔」
 
曰「鑿木為機,後重前輕,挈水若抽,數如泆湯,其名為槔」
  
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:子貢、南のかた楚に遊び、晋に反(かえ)らんとして漢陰を過ぎ、一丈人の方将(まさ)に圃畦を為(つく)るを見る。 隧を鑿(うが)ちて井に入り、甕(かめ)を抱きて出でて灌ぐ。搰搰然として用力の甚だ多きも、而も功を見ること寡(すく)なし。
 
:子貢、南のかた楚に遊び、晋に反(かえ)らんとして漢陰を過ぎ、一丈人の方将(まさ)に圃畦を為(つく)るを見る。 隧を鑿(うが)ちて井に入り、甕(かめ)を抱きて出でて灌ぐ。搰搰然として用力の甚だ多きも、而も功を見ること寡(すく)なし。
 
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為圃者忿然作色而笑曰「吾聞之吾師,'''有機械者必有機事,有機事者必有機心。'''機心存於胸中則純白不備、純白不備,則神生不定,神生不定者,道之所不載也。吾非不知,羞而不為也。」
 
為圃者忿然作色而笑曰「吾聞之吾師,'''有機械者必有機事,有機事者必有機心。'''機心存於胸中則純白不備、純白不備,則神生不定,神生不定者,道之所不載也。吾非不知,羞而不為也。」
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:圃を為(つく)る者、忿然として色を作すも、而も笑いて日わく、吾れこれを吾が師より聞けり。機械ある者は必ず機事あり。機事ある者は必ず機心あり。 機心、胸中に存すれば、則ち純白備わらず。 純白備わらざれば、則ち神生(性)定まらず。神生(性)定まらざる者は、道の載せざる所なりと。 吾れは知らざるに非ざるも、羞(は)じて為さざるなりと。  
 
:圃を為(つく)る者、忿然として色を作すも、而も笑いて日わく、吾れこれを吾が師より聞けり。機械ある者は必ず機事あり。機事ある者は必ず機心あり。 機心、胸中に存すれば、則ち純白備わらず。 純白備わらざれば、則ち神生(性)定まらず。神生(性)定まらざる者は、道の載せざる所なりと。 吾れは知らざるに非ざるも、羞(は)じて為さざるなりと。  
 
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2024年9月10日 (火) 11:38時点における版

『荘子』天地篇 第十二

『荘子』には、

有機械者 必有機事、有機事者必有機心 
機械ある者は、必ず機事あり。機事ある者は、必ず機心あり。

とある。機械の原義は巧妙なしかけの器具。ここから、世渡りの知恵。また、いつわり。たくらみを意味する。

原文(岩波文庫第二冊)

「有機械者必有機事,有機事者必有機心」

 子貢南遊於楚,反於晋,過漢陰,見一丈人方將為圃畦,鑿隧而入井,抱甕而出灌,搰搰然用力甚多而見功寡。
子貢曰「有械於此,一日浸百畦,用力甚寡而見功多,夫子不欲乎」
為圃者卬而視之曰
「柰何」
曰「鑿木為機,後重前輕,挈水若抽,數如泆湯,其名為槔」

訓読 「隠/顕」
子貢、南のかた楚に遊び、晋に反(かえ)らんとして漢陰を過ぎ、一丈人の方将(まさ)に圃畦を為(つく)るを見る。 隧を鑿(うが)ちて井に入り、甕(かめ)を抱きて出でて灌ぐ。搰搰然として用力の甚だ多きも、而も功を見ること寡(すく)なし。
子貢曰わく、此に械あり、一日に百畦を浸す。用力甚だ寡(すく)なくして、而も功を見ること多し。夫子。欲せざるかと。
圃を為(つく)る者、卬(仰)ぎてこれを視て曰わく、柰何(いかん)と。
曰わく、木を鑿(うが)ちて機を為(つく)り、後は重くして前は軽く、水を挈(あ)ぐること抽(流)るるが若く、数(速)きことは 泆湯(□)の如し。其の名を槔と為すと。

為圃者忿然作色而笑曰「吾聞之吾師,有機械者必有機事,有機事者必有機心。機心存於胸中則純白不備、純白不備,則神生不定,神生不定者,道之所不載也。吾非不知,羞而不為也。」

訓読 「隠/顕」
圃を為(つく)る者、忿然として色を作すも、而も笑いて日わく、吾れこれを吾が師より聞けり。機械ある者は必ず機事あり。機事ある者は必ず機心あり。 機心、胸中に存すれば、則ち純白備わらず。 純白備わらざれば、則ち神生(性)定まらず。神生(性)定まらざる者は、道の載せざる所なりと。 吾れは知らざるに非ざるも、羞(は)じて為さざるなりと。

現代語

子貢が南力の楚の国に旅をして、 晋の国にもどろうとして漢水の南を歩いていたときのこと 一人の老人がちょうど畑づくりをしているのに出あった。切り通しの道が掘ってあってそこから 井戸の中に入り、水甕をかかえて出てくるとその水を畑にかけているのである。せっせと骨を折って大変な努力をしているのに、効果はさっぱりあがらない。子貢は話しかけた、「一日に百うねも水をかけられる装置がありますよ。ほんのちょっとした骨折りで、功果は大きいのですが、 あなた使おうとは思いませんか。」
畑づくりの老人は顔をあげて子貢をみると、「どんなものだね」とたずねた。子貢「横木の(中ほど)に穴をあけてそこで仕掛を作り、横木の後端が重く、前端が軽くなるようにしてあって、まるで流れているように水を汲みあげ、溢れ出るように速いのです。その名まえ槔(はねつるべ)と言います。」
畑づくりはむっとして顔色をかえたが、笑いながらいった、「わしは、わしの師匠から教えられたよ。仕掛 けからくりを用いる者は、必ずからくり事をするものだ。からくり事をする者は かならず からくり心をめぐらすものだ。からくり心が胸中に起こると、純真潔白な本来のものがなくなり、純真潔白なものが失なわれると精神や本性のはたらきが安定しなくなる。精神や本性が安定しない者は、道によって支持されないね。わしは〔はねつるべを〕知らないわけじゃない、〔道に対して〕恥ずかしいから使わないのだよ。」

略説

 機械ができると、便利と考え、その機械を用いる仕事が起こってくる。ところが、機械はからくりであるから、このからくりに従事していると、いつとはなしにそれに振りまわされ、いわゆる機心、投機心(機械に投じる心)が起こってくる。
 つまり、機械の発達は喜ぶべきことではあるが、機械に振りまわされては、人間の心の不在を招く。

 むかし、孔子の門人の子貢がある地方に行ったとき、一人の老人が〔井戸に降りて〕かめに水をいれて畠の作物に水をやっていた。それを見た子貢が、いちいち水を汲んでいたら骨が折れてしかたがない。いまはつるべという機械ができているのだから、それを用いるがよいというと、その老人は、わたしもそのことを知らぬわけではないが、ただ恥じて使わないのだと、右のようにいったという。(『中国古典名言辞典』p.360)