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「三輩」の版間の差分

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: わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
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御開山はこの法然聖人の意をうけられ「しかるに菩提心について二種あり。一つには「[[竪]]」、二つには「[[横]]」なり。」([[信巻本#P--246|信巻 P.246]])と、菩提心には聖道と浄土の二種があるとされた。浄土門の菩提心は「[[願作仏心]]」と「[[度衆生心]]」であると展開されたのが御開山であった。
 
御開山はこの法然聖人の意をうけられ「しかるに菩提心について二種あり。一つには「[[竪]]」、二つには「[[横]]」なり。」([[信巻本#P--246|信巻 P.246]])と、菩提心には聖道と浄土の二種があるとされた。浄土門の菩提心は「[[願作仏心]]」と「[[度衆生心]]」であると展開されたのが御開山であった。
  
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:→[[二双四重]]
 
:→[[大経下#明諸行往生|三輩諸行往生を明かす]]
 
:→[[大経下#明諸行往生|三輩諸行往生を明かす]]
 
:→[[一向専念無量寿仏]]
 
:→[[一向専念無量寿仏]]
  
 
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2024年6月11日 (火) 09:55時点における版

さんぱい

 『大経』に、浄土往生を願う三種のともがらをその修行の別によって上輩(じょうはい)中輩(ちゅうはい)下輩(げはい)の三種に区別したもの。(大経 P.41)

① 上輩。出家して沙門(しゃもん)となり、さとりを求める心〔菩提心〕をおこしてひたすらに無量寿仏を念じ、諸の功徳(くどく)を修めるもの。
② 中輩。沙門となって大いに功徳を修めることはできないが、さとりを求める心〔菩提心〕をおこしてひたすらに無量寿仏を念じ、多少に善を修めるもの。
③ 下輩。たださとりを求める心〔菩提心〕をおこして、ひたすらに無量寿仏を念ずるもの。

また、『観経』には九品往生が説かれるが、その上三品を上輩、中三品を中輩、下三品を下輩としているから三輩の展開とみることができる。→九品(くぼん)。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

  • さとりを求める心の〔菩提心〕は林遊が追記。

 『大経』の「三輩段」には、菩提心を発(おこ)すことと無量寿仏を念じる称名が説かれている。→三輩諸行往生を明かす
曇鸞大師は『論註』で、三輩段は菩提心を発(おこ)す意を説かれているとみられ、

 王舎城所説の『無量寿経』()を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。 もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間(ひま) なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。(論註 P.144)、(信巻 P.247 で引文)

と、「願作仏心」と「度衆生心」の菩提心を示された。
これに対して法然聖人は『選択本願念仏集』で『観念法門』の文を引かれて、

 わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
 答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。」(観念法門 P.630)、(選択本願念仏集 P.1216)

と、「菩提心」は「余行」であり、善導大師の釈意により無量寿仏の名を念じる称名を説かれていると見られた。→一向専念無量寿仏
法然聖人は、菩提心について、

菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり。念仏はこれ大乗の行なり。無上の功徳也。(三部経大意#P--797)

と「浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心」とされておられた。
御開山はこの法然聖人の意をうけられ「しかるに菩提心について二種あり。一つには「」、二つには「」なり。」(信巻 P.246)と、菩提心には聖道と浄土の二種があるとされた。浄土門の菩提心は「願作仏心」と「度衆生心」であると展開されたのが御開山であった。

二双四重
三輩諸行往生を明かす
一向専念無量寿仏