「無疑心」の版間の差分
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御開山は、[[第十八願]]の[[三心]]を結釈して、 | 御開山は、[[第十八願]]の[[三心]]を結釈して、 | ||
− | :「[[三心]]すでに[[疑蓋]]雑(まじ)はることなし、ゆゑに真実の[[一心]]なり。これを[[金剛]]の真心と名づく。[[金剛]]の真心、これを[[真実の信心]]と名づく。(三心已'''疑蓋無雑''' 故真実一心 是名金剛真心 金剛真心 是名真実信心。)」([[信巻本#三心結釈|信巻 P.245]]) | + | :「[[三心]]すでに[[疑蓋]]雑(まじ)はることなし、ゆゑに真実の[[一心]]なり。これを[[金剛]]の真心と名づく。[[金剛]]の真心、これを[[真実の信心]]と名づく。(三心已'''[[疑蓋無雑]]''' 故真実一心 是名金剛真心 金剛真心 是名真実信心。)」([[信巻本#三心結釈|信巻 P.245]]) |
− | と、<kana>疑蓋(ぎがい)</kana><kana>無雑(むぞう)</kana>(疑蓋雑はることなし)と述べておられた。疑蓋とは本願に対する疑いの蓋といふ意で疑心のことである。この疑蓋を<kana>雑(なじ)</kana>えないことを[[無疑心]](疑心なし)といふ。<br /> | + | と、[[疑蓋無雑|<kana>疑蓋(ぎがい)</kana><kana>無雑(むぞう)</kana>]](疑蓋雑はることなし)と述べておられた。疑蓋とは本願に対する疑いの蓋といふ意で疑心のことである。この疑蓋を<kana>雑(なじ)</kana>えないことを[[無疑心]](疑心なし)といふ。<br /> |
この[[無疑心]]とは、疑ふこころなきで、疑いがない心があることではない。[[無疑心]]とは無い状態を示す語である。では、何があるかといえば[[法]]があるのである。[[法]]が[[機]]にあることを[[信心]]([[信楽]])というのであった。 | この[[無疑心]]とは、疑ふこころなきで、疑いがない心があることではない。[[無疑心]]とは無い状態を示す語である。では、何があるかといえば[[法]]があるのである。[[法]]が[[機]]にあることを[[信心]]([[信楽]])というのであった。 | ||
2024年4月5日 (金) 15:09時点における版
むぎしん
無疑心とは、
御開山は「本願成就文」で、
と、疑心あることなし(無有疑心)とされておられた。→疑蓋
『一念多念証文』には、「本願成就文」を釈し、
と「疑ふこころなき」(無疑心)とある。(無二疑心一)
御開山は、第十八願の三心を結釈して、
- 「三心すでに疑蓋雑(まじ)はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。(三心已疑蓋無雑 故真実一心 是名金剛真心 金剛真心 是名真実信心。)」(信巻 P.245)
と、
この無疑心とは、疑ふこころなきで、疑いがない心があることではない。無疑心とは無い状態を示す語である。では、何があるかといえば法があるのである。法が機にあることを信心(信楽)というのであった。
- →不疑心