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「おほよそ…名づく」の版間の差分

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 親鸞聖人は 「おほよそ三業を起すに、かならず真実を須(もち)ゐるがゆゑに至誠心と名づく」 (化身土文類訓) と読まれた。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1247|選択集 P.1247]]、[[往生礼讃 (七祖)#P--654|往生礼讃 P.654]])
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 親鸞聖人は 「おほよそ[[三業]]を起すに、かならず真実を須(もち)ゐるがゆゑに至誠心と名づく」 (化身土文類訓) と読まれた。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1247|選択集 P.1247]]、[[往生礼讃 (七祖)#P--654|往生礼讃 P.654]])
  
 
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『礼讃』の訓。
 
『礼讃』の訓。
 
:凡起三業必須真実 故名至誠心
 
:凡起三業必須真実 故名至誠心
::おほよそ三業を起さば、かならずすべからく真実なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。 ([[往生礼讃 (七祖)#P--654|往生礼讃 P.654]])
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::おほよそ[[三業]]を起さば、かならずすべからく真実なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。 ([[往生礼讃 (七祖)#P--654|往生礼讃 P.654]])
  
 
御開山の訓。
 
御開山の訓。
 
:凡起三業必須真実故 名至誠心
 
:凡起三業必須真実故 名至誠心
::おほよそ三業を起すに、かならず真実を須(もち)ゐるがゆゑに至誠心と名づく。([[化巻本#no24|化巻 P.388]])
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::おほよそ[[三業]]を起すに、かならず真実を須(もち)ゐるがゆゑに至誠心と名づく。([[化巻本#no24|化巻 P.388]])
 
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『礼讃』では、身・口・意の三業は衆生の起こす三業なのだが、御開山は、阿弥陀如来の修行された真実を須(もち)いると読まれた。<br />
 
真実とは自己にあるのではなく如来の真実の側で至誠心を語る。この意をあらわすために「須」を〔もちいる〕と訓じて、如来の至誠心を須(もち)いるがゆえに衆生の側にも真実の至誠心ということがいえるとされた。
 
真実とは自己にあるのではなく如来の真実の側で至誠心を語る。この意をあらわすために「須」を〔もちいる〕と訓じて、如来の至誠心を須(もち)いるがゆえに衆生の側にも真実の至誠心ということがいえるとされた。
  
 
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2024年3月29日 (金) 23:16時点における版

 親鸞聖人は 「おほよそ三業を起すに、かならず真実を須(もち)ゐるがゆゑに至誠心と名づく」 (化身土文類訓) と読まれた。 (選択集 P.1247往生礼讃 P.654)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『礼讃』の訓。

凡起三業必須真実 故名至誠心
おほよそ三業を起さば、かならずすべからく真実なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。 (往生礼讃 P.654)

御開山の訓。

凡起三業必須真実故 名至誠心
おほよそ三業を起すに、かならず真実を須(もち)ゐるがゆゑに至誠心と名づく。(化巻 P.388)

『礼讃』では、身・口・意の三業は衆生の起こす三業なのだが、御開山は、阿弥陀如来の修行された真実を須(もち)いると読まれた。
真実とは自己にあるのではなく如来の真実の側で至誠心を語る。この意をあらわすために「須」を〔もちいる〕と訓じて、如来の至誠心を須(もち)いるがゆえに衆生の側にも真実の至誠心ということがいえるとされた。