操作

トーク

「三不三信」の版間の差分

提供: WikiArc

(ページの作成:「『論註』には、 :しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、...」)
 
 
1行目: 1行目:
 
『論註』には、
 
『論註』には、
:しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ[[実相身]]なり、これ[[為物身]]なりと知らざればなり。
+
:しかるに名を称し[[憶念]]すれども、[[無明]]なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ[[実相身]]なり、これ[[為物身]]なりと知らざればなり。
 
:また[[三種の不相応あり…|三種の不相応あり]]。'''一には信心淳(あつ)からず'''、[[存ずるがごとく…|存ずるがごとく]]亡ずるがごときゆゑなり。'''二には信心一ならず'''、決定なきがゆゑなり。'''三には信心相続せず'''、余念間(へだ)つるがゆゑなり。この三句展転してあひ成ず。信心淳(あつ)からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信を得ざるがゆゑに心淳(あつ)からざるべし。これと相違せるを「如実に修行し相応す」と名づく。このゆゑに論主(天親)、「我一心」と建言す。  ([[浄土論註 (七祖)#二不知三不信|論註 P.103]])
 
:また[[三種の不相応あり…|三種の不相応あり]]。'''一には信心淳(あつ)からず'''、[[存ずるがごとく…|存ずるがごとく]]亡ずるがごときゆゑなり。'''二には信心一ならず'''、決定なきがゆゑなり。'''三には信心相続せず'''、余念間(へだ)つるがゆゑなり。この三句展転してあひ成ず。信心淳(あつ)からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信を得ざるがゆゑに心淳(あつ)からざるべし。これと相違せるを「如実に修行し相応す」と名づく。このゆゑに論主(天親)、「我一心」と建言す。  ([[浄土論註 (七祖)#二不知三不信|論註 P.103]])
 
と二不知・三不信をしめしている。この三不信を『安楽集』では、三信と示している。
 
と二不知・三不信をしめしている。この三不信を『安楽集』では、三信と示している。
:また三種の不相応あり。 一には信心淳からず、存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなるがゆゑなり。 二には信心一ならず、いはく、決定なきがゆゑなり。 三には信心相続せず、いはく、余念間つるがゆゑなり。 たがひにあひ収摂す。
+
:また三種の不相応あり。 一には信心淳からず、存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなるがゆゑなり。 二には信心一ならず、いはく、決定なきがゆゑなり。 三には信心相続せず、いはく、余念間(へだ)つるがゆゑなり。 たがひにあひ収摂す。
 
:もしよく'''相続'''すればすなはちこれ一心なり。 ただよく'''一心'''なれば、すなはちこれ'''淳心'''なり。 この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。  ([[安楽集 (七祖)#P--232|安楽集 P.232]])
 
:もしよく'''相続'''すればすなはちこれ一心なり。 ただよく'''一心'''なれば、すなはちこれ'''淳心'''なり。 この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。  ([[安楽集 (七祖)#P--232|安楽集 P.232]])
 
「正信念仏偈」では、この三不信を三信と示された道綽禅師の釈意を、
 
「正信念仏偈」では、この三不信を三信と示された道綽禅師の釈意を、

2024年2月25日 (日) 22:22時点における最新版

『論註』には、

しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ実相身なり、これ為物身なりと知らざればなり。
また三種の不相応あり一には信心淳(あつ)からず存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり。二には信心一ならず、決定なきがゆゑなり。三には信心相続せず、余念間(へだ)つるがゆゑなり。この三句展転してあひ成ず。信心淳(あつ)からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信を得ざるがゆゑに心淳(あつ)からざるべし。これと相違せるを「如実に修行し相応す」と名づく。このゆゑに論主(天親)、「我一心」と建言す。 (論註 P.103)

と二不知・三不信をしめしている。この三不信を『安楽集』では、三信と示している。

また三種の不相応あり。 一には信心淳からず、存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなるがゆゑなり。 二には信心一ならず、いはく、決定なきがゆゑなり。 三には信心相続せず、いはく、余念間(へだ)つるがゆゑなり。 たがひにあひ収摂す。
もしよく相続すればすなはちこれ一心なり。 ただよく一心なれば、すなはちこれ淳心なり。 この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。 (安楽集 P.232)

「正信念仏偈」では、この三不信を三信と示された道綽禅師の釈意を、

三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
三不三信の誨(おしえ)、慇懃にして、像末法滅同じく悲引す。
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといへり。(行巻 P.206)

と、道綽禅師の釈功とされている。

『高僧和讃』「曇鸞讃」(*)では、展転する、淳心、一心、相続心を、
(48)

不如実修行といへること
鸞師釈してのたまはく
一者信心あつからず
若存若亡するゆゑに

(49)

二者信心一ならず
決定なきゆゑなれば
三者信心相続せず
余念間故とのべたまふ

(50)

三信展転相成す
行者こころをとどむべし
信心あつからざるゆゑに
決定の信なかりけり

(51)

決定の信なきゆゑに
念相続せざるなり
念相続せざるゆゑ
決定の信をえざるなり

(52)

決定の信をえざるゆゑ
信心不淳とのべたまふ
如実修行相応は
信心ひとつにさだめたり

と、五句を和讃されておられた。