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2024年1月27日 (土) 15:01時点における版
一遍
(1239-1289)諱(いみな)は智真、時宗の開祖。円照大師、遊行(ゆぎょう)上人とも呼ばれる。
伊予(現在の愛媛県)の豪族河野道広の子として生まれ、出家して聖達(浄土宗西山派の祖、証空の弟子)に師事した。
文永十一年(1274)熊野に百箇日参篭して、夢告を得、自ら一遍と号して時宗を開き、以後全国を遊行して念仏弘通に努めた。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
六字名号一遍法
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:一遍
いっぺん/一遍
延応元年(一二三九)二月一五日—正応二年(一二八九)八月二三日。時宗の宗祖。幼名は松寿丸。諱は智真。証誠大師。捨聖、遊行上人とも呼ばれる。伊予国の豪族河野通信の五男通広(出家して如仏)の二男として誕生する。一〇歳で母に死別し、父の命をうけて出家、随縁と名のる。建長三年(一二五一)太宰府に赴き、証空の弟子聖達(「せいだ」とも言われる)、華台に師事し智真と名を改め、一二年間浄土教を学ぶ。弘長三年(一二六三)父如仏の訃報を受け故郷伊予へ帰り、還俗して真俗二諦の生活を送ったといわれている。文永八年(一二七一)の春、信濃善光寺に参詣し、「二河白道図」を写し帰国、その秋より三年間、伊予の窪寺(愛媛県松山市)の閑室で念仏三昧の修行をする。同一〇年菅生の岩屋に参籠。同一一年、伊予を出発し遊行の旅に出、大坂四天王寺で「念仏札」を配りはじめる(賦算)。高野山を経て、熊野本宮へ参籠。その間熊野権現から「信不信、浄不浄の区別なく、『念仏札』を配るよう」神勅を受けたとされ、この時、「念仏を称えるものは極楽に往生し、その人は白蓮華のように清らかである」という意味の「六十万人頌」を作った。これより「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と刷った念仏札を配り、智真を一遍と改めた。以後、踊り念仏をはじめ、一処不住の生活は一六年間におよんだ。正応二年兵庫の観音堂において往生。世寿五一歳。最後のことばは「没後の事は、我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野にすてゝけだものにほどこすべし」(『一遍聖絵』岩波文庫、一四二)であった。在地の人びとが荼毘に付し、墓所を荘厳したという。また、亡くなる二週間前の八月一〇日の朝に、所持していた一切の持物を焼き捨てたという。
【資料】『一遍聖絵』(清浄光寺蔵)
【参考】『定本時宗宗典』下(時宗宗務所、一九七九)、浅山円祥『一遍聖絵・六条縁起』(山喜房仏書林、一九五二)、金井清光『一遍と時衆教団』(角川書店、一九七五)
【執筆者:長島尚道】